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年間第14主日:「これが平和なのかな」、自分の傍らに見出だす

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年間第14主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第14主日(C年)の説教=ルカ10・1~12、17~20

2022年7月3日

「こわいをしって へいわがあった」

「こわいよ
 かなしいよ
  かわいそうだよ
   せんそうのはんたいはなに?
    へいわ?
     へいわってなに? 

    きゅうにこわくなって
     おかあさんにくっついた
      あたたかくてほっとした
       これがへいわなのかな

           おねえちゃんとけんかした
            おかあさんは 二人の話を聞いてくれた
             そして仲なおり
              これがへいわなのかな
せんそうがこわいから
 へいわをつかみたい
  ずっとポケットにいれてもっておく
   ぜったいおとさないように
    なくさないように
     わすれないように
      こわいをしって へいわがあった」

この詩は、沖縄全戦没者追悼式で沖縄市立山内小2年徳元穂菜さん(7歳)自作の平和の詩「こわいをしって へいわがあった」の後半の部分です。(南日本新聞2022年6月24日朝刊) 

徳元穂菜さんの曽祖父は「平和の礎」に名前が刻まれています。糸満市の摩文仁の平和公園で開かれた追悼式。国籍や軍民を問わず、戦没者の氏名を刻んだ公園内の石碑「平和の礎」には、今年新たに55人が追加され、計4万1686人となりました。

人間一人ひとりが平和の使者、担い手

「77年前の記憶を呼び起こすもので、衝撃をうけている」と玉城デ二―知事は23日、沖縄全戦没者追悼式で述べた平和宣言でウクライナ情勢に触れています。太平洋戦争の末期の沖縄戦終結から77年が経ちました。そして、ロシアによるウクライナ侵攻で戦禍の記憶がよぎったのです。それだけ平和への願いが強いということでもあります。

しかし、いくら願っても、「平和」はお金を払って獲得できるものではありません。でも、人々を楽しく豊かにしてくれます。だからといって、「平和」から何かがなくなり、減退するものでもないのです。いかに貧しくても、「平和」の功徳によって豊かになります。疲れた者にとっては休息になり、失望する者には希望となり、さまざまな心配にたいしては、ホッとできる「安心・安定剤」となります。

わたしたち人間は、一人ひとりそれぞれが平和の使者であり、担い手です。仮に、平和をもたらしたからといって「わたし」が偉いわけでもなく、ごく普通のことをしたまでなのです。それだけわたしたちは平和に渇き、取得したい大きな、それでいて日常的なものなのです。だから、徳元穂菜さんの詩が身に沁みます。

へいわをつかみたい
 ずっとポケットにいれてもっておく
  ぜったいおとさないように
   なくさないように
    わすれないように

今日の福音書でイエスは弟子たちに平和の伝達者の心を勧めます。それは、キリストの心を受け取り、それを純粋に伝えようとしているのかということです。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

教会は長い歴史の中で、その時代の流れに沿った姿を取り、ある時は純粋にイエスの教えに基づいて燃え上がり、キリストの教えのしるしになった時代がありました。逆に、惰性に流されて堕落し、キリストに近づこうとしている人々へのつまずきになってしまった時代もありました。

平和の苗床は日常の出来事の中にある

人間の弱さを隠すことはできません。したがって、弱さを抱えたままに、人々へキリストのメッセージを伝えなければいけないのです。そこで、今のわたしたちが心しておきたいこと、それはイエスに「選ばれた」という事実です。今日の福音書で、イエスがご自分のメッセージを伝えるために始めたこと、それは72人を指名選定したことでした。

弟子たちには、イエスに選ばれたということから権威が生じるのです。しかし、この権威は、そのものとしては素晴らしいものですが、権威を受けた人の欲望と結びついたときとてつもなく怖い、恐ろしいものへと変身します。先ずは、イエスのメッセージをゆがめます。己の都合に合うものへと変えられていきます。結果として、イエスに近づこうとする人々の妨げになってしまうのです。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」とイエスは言われます。つまり、牧者のいない羊のようにぐったりしている人がなんと多いことかとイエスは嘆かれるのです。それはまた、ごく日常の生活の中での話であると言われます。人生のさまざまな労苦を抱え、その重荷を背負いきれないでいる人々の姿に目を留めなさいと言われるのです。人のみじめさの現実に気づきなさいということでしょう。これが権威を与えられた人に求められている心です、とイエスは強調なさいます。そして、弟子たちは人々の現実の社会へとはいっていきます。こうした人々への「共感」からわきおこってくる宣教活動が、権威を持った人に求められているのです。

そして、たたみかけるように言われます。「貧しくあれ」と。これは弟子たちが堕落しないための守りであるかのように言われます。つまり、宣教活動は、現世的な利益を求めるものではないということです。快適な生活を志向していないということです。権威の堕落は「富」から始まります。歴史が証明しています。大事なことは「この家に平和」があることなのです。

はたしてわたしたち一人ひとりはどうでしょうか。今の現実の社会で、徳元穂菜さんが言う

「きゅうにこわくなって
 おかあさんにくっついた 
  あたたかくてほっとした 
   これがへいわなのかな 

おねえちゃんとけんかした 
 おかあさんは 二人の話を聞いてくれた 
  そして仲なおり 
   これがへいわなのかな」

日常わたしたちの身近なところで展開されていく出来事の中に、平和の苗床があるのに、それに気づいていないのであれば、しっかりと目を見開きたいですね。小さなことの繰り返しが、積み重ねが大きな実りをもたらします。大事にしましょう。

皆で開拓していきましょう。「選ばれたもの」として、・・。

 

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