『年間第13主日』の聖書と説教はこちら

年間第13主日:信仰のマンネリ化から創造的に生みだす新たな「わたし」の道

この記事は約5分で読めます。
年間第13主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第13主日(C年)の福音=ルカ9・51~62

2022年6月26日

最近の日本の教会はサロン化していないか?

「マンネリ化」という言葉があります。一般的に使われるマンネリ化という言葉は、「マンネリズム」という単語から使われるようになりました。「精選版 日本国語大辞典」によると、マンネリズムとは「一定の技法、形式などが惰性的に繰り返され、型にはまって独創性や新鮮さを失うこと。また、その傾向」と説明されています。要約すると、同じことが繰り返されて新鮮味が無くなることが「マンネリ化」という単語の意味になります。(「ハピラフMAGAZINE」より) このマンネリ化は、新鮮味がなくなるだけではなく、そのものが持っている本来の存在意義までもが削がれてしまう危険をはらんでいるともいえます。

東南アジアで在職したことのある友人が、かつて、言っていたことを思い出します。「最近の日本の教会はサロン化していないか」というのです。これが、今また、再燃してはいないか気になっています。緊迫した社会の中に置かれている教会にいる方からすれば、なお一層、のんびり感のする日本の教会、と思われるかもしれません。事実、教会内での話題といえば、教会の資金をどうしようか、そのために、バザーをどうしようとか、・・。この信者さんがこうして、ああしてこうなった、とかの他者批判、引いては非難に走ってしまっているのではないかと。このようなことだけを見れば、サロン的と言われてもしかたないかなと思ってしまいます。それでも、その批判に反論したくなる、これがわたしたちの現実でもあります。

教会「本来の役割」の追及がおろそかでは…

つまり、教会本来の役割はどこにいってしまったのであろうか、ということが話題に上ってこないということでしょうね。みなが皆、そうだとは思いませんが、風潮としてはますますその傾向が強くなったといえなくはないでしょう。しかも、さらに悪いことに、そうした現象に対して誰もが表面的に無関心を装っているような、・・。つまり、一人ひとりが、信じることに、信者として生き抜くことに何の新鮮味も感じなくなっていて、単に惰性で信仰者であり続けているというのでしょうか。外観上そのように見えてくると、全体の士気も上がってこないのも当然の結末かなと、・・。これが連鎖的に共同体全体に及んでしまい、見た目がサロン化ふうになっているのかもしれませんね。

年間第13主日:鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない
年間第13主日(C年)の福音=ルカ9・51~62 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。

しかし、目に見えて表面化していない教会の姿はこんなものではないでしょう。現実の生活現場において、キリストのメッセージをどのように生き、伝えていけばよいのか四苦八苦しているのです。そうした「緊迫した」気持ちと生き方を追求するところに、「キリスト者」たる所以があるのに。そのために求められるものが、今日の福音で示されているようです。それは決心してエルサレムに向かわれたイエスの姿に見られます。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」のです。

受洗時のあの決意、覚悟を改めて確認したい

それは「決意」という言葉で示されています。これを「覚悟する」という表現に言いかえることができないでしょうか。わたしたちは洗礼を受ける時にその覚悟を表明しているのです。決意を新たに「はい」と言ってイエスの招きを受け入れました。にもかかわらず、わたしたちの弱さがどこかでいつも頭をもたげてくるのです。その決意を、覚悟を揺るがす誘いが、それこそ襲い掛かってくるのです。その度にイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、わたしたちを叱咤激励してくださっています。人間のエゴイズムは死と苦しみに対して恐怖を感じさせるからです。

しかし、イエスは天のお父のみ旨として、人々の救いにかかわること、それは神のしもべとして十字架の死を遂げられることでした。その死に場所がエルサレムでした。だから、エルサレムに向かうことは、覚悟のいる決心だったのです。引き戻ることはできなかったのです。そのイエスが「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」といわれるのです。常識的に見れば、死は愚かで、敗北としか見えないことに、最高の価値があると強い確信のうちに、イエスはエルサレムに入られます。これはイエスの道であるという強い信念を弟子たちに伝えたのです。十字架の死によって人々が救われる、これこそが「最高の価値」あるイエスの道だったのです。

マンネリ化が進めば進むほどに、活動は後退

わたしたちの世は、魅力的な人・こと・ものがたくさんあります。それらはわたしたち人間にとってすべて「良し」といわれる「もの」ばかりなのです。同時に、神の望まれる「もの」ばかりでもあるのです。便利なものもたくさんあります。

これらに反して、教会活動はどうでしょうか。マンネリ化が進めば進むほどに、活動そのものは後退してしまいます。何よりも、まず「わたし」はどうでしょうか。イエスが覚悟を決めて「わが道」を日常に求め、歩み始めたように、わたしたちも最高の価値ある「わたし」の歩む道を探しあてたいです。それはどれでしょうか。また、それはごく身近な、平凡な生活の中において求められているのであり、また、見つけることができるものです。

「マンネリ化」から生まれ出た新鮮な、創造的な活動(道)を日常に見つけてみましょう。それは今の「わたし」にとって、はたして何、・・?

 

年間第13主日【6月26日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました