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年間第13主日:イエスの新しい掟、それは隣人愛を高めること

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年間第13主日(A年)の福音=マタイ10・37~42

2020年6月28日

「愛鳥の伝統受け継いで」「OB手作り児童に巣箱」

曽於市の財部南小学校を卒業した目串浩見さん(74歳)=鹿児島市吉野町=が、小鳥を観察するための巣箱を全児童27人にプレゼントしたという報道です。同小学校は70年前から愛鳥活動を続けているのだそうです。目串さんは「命を大切にする伝統を受け継いでほしい」と呼び掛けています。(南日本新聞2020年6月22日朝刊)

財部・南小の愛鳥活動に協力するOBの話から

同小学校の愛鳥活動は1950年(昭和25年)、当時の児童が校内にあったスズメの巣を落とし、ひなを死なせた「小鳥事件」をきっかけに始まったそうです。ひなの墓は今も保存され、子どもたちは周辺にやってくるシジュウカラ、ツグミ、コゲラなどを定期的に観察しているといいます。

目串さんが以前に同小学校を訪れた際に、壊れている巣箱に気づき、新しく作り直すことを学校側に提案し、材料を買いそろえて、小鳥が入りやすい形を調べながら作り直したということです。6年生の東丸杏奈さんは「自分の巣箱に小鳥が入って子育てをしてくれたらうれしい。これからもたくさんの小鳥を観察していきたい」と笑顔で語っています。

70年も続くいのちを大切にする活動に感銘

「いのちを大切にする」ということは、動物であれ、植物であれ大事なことです。財部南小学校では一つの事件をきっかけに始まった愛鳥活動ですが、それが70年もの間、保たれているということは、小鳥に対する小学生の愛情の深さ、尊さを感じます。それ以上に、人間・友だちに対する愛情の豊かさも備わっているのではないでしょうか。

「愛」をもっと深く、豊かにしようと思って計画しても、物を企画し生産するようにはいきません。人とのかかわり、人とのふれあい、出会いを通して自ずと育っていくものではないんでしょうか。そのためには人(他者)が大事です。そして、より多くの方と出会い、かかわりを持ち、重ねていくことでしょう。だから、仲間は多いほうがいいのです。しかも、素晴らしい人に出会うと、その人の感化を受け、自らの変化(成長)の機会となるほどに、その人が宝物のような存在者になります。また、それは自分のためだけではなく、相手の方にとっても素敵なかかわりになっていきます。

みな家族や友人等に支えられ、生きている

いうまでもなく、わたしたちは毎日の生活が親、兄弟姉妹、友人等に支えられている事実をよくわかっています。そうです。「わたし」の周りにはいつもこうした人たちがいてくれているのです。だから、父や母、息子や娘、友人を大切にするのは当然のことです。

年間第13主日:正しい者を受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける
年間第13主日(A年)の福音=マタイ10・37~42 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

しかしイエスは、家族を「イエスより」愛する人は「イエスにふさわしくない」と明言なさいます。それは「イエスに従わないこと」であり、命への道ではないと教えるのです。なぜって、イエスは神の国をもたらした方・本人だからです。つまり、イエスとのかかわりが欠如していることになるといわれます。

親や友を愛する者は私に相応しくない!とは

とはいっても、イエスの主旨が、神への道と人間同士のつながりを分裂させることにあるのでないのは確かです。神への愛と人への愛を引き裂くことに、イエスの意図はないということです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」と、使徒ヨハネが記している通りです(ヨハネの第一の手紙4章20~21節)。

人への愛を否定するのではなく、本当の意味で、わたしたちの愛が真実な愛であるために、イエスに学びなさいということでしょう。すなわち、イエスの心は何なのかということです。「わたしが愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章12~13節)。兄弟、姉妹愛の理想がイエスご自身にあるということです。イエスの心の豊かさが新しい掟の基準とされたのです。

エゴや打算に基づいた「愛」への注意喚起

わたしたちの愛は、どちらかと言えば、自分の気分に揺さぶられ、目先の利害にとらわれ、自分の楽しみに引きずられていることが多いです。その上、他者に要求する愛に偏ってしまいがちです。要するにエゴイズムに満ちた愛のケースが多いのではないでしょうか。それが、愛と言えるのかどうか、・・。そのことにすら気づいていないのではないかと思うのです。

「わたし」は誰かとかかわるときに、打算ではなく誠実にかかわっているでしょうか。真剣でしょうか。これらが、「わたし」の人間関係に生きているでしょうか。生きていなければ、「わたしの真の弟子」とは言えないとイエスは言われます。

イエスに倣って、とことん他者に尽くすこと

イエスは、とことん人を手厚くもてなしてきたのです。洗礼を受け、「イエスの弟子である」と宣言できるほどの「わたし」でしょうか。「イエスの宣教者」になっているのでしょうか。「冷たい水の一杯」であっても「報い」が保証されるほどに、「宣教者」の役割は貴重なのです。

「わたし」の中に育つ愛は、イエスの徹底した愛の姿によって高められました。「わたしが愛したように」という言葉がその源です。だから精一杯、そのようにわたしたちも愛していきましょう。

「空の鳥を見なさい。・・・あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。・・神はこのように装ってくださる」(マタイ6章26~30節)。

「小鳥事件」から始まった愛鳥観察を通して、人としての充実した成長も図られたのではないでしょうか。すべては小さな一歩から始まります。

 

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