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キリストの聖体:聖体を定めたイエスの思い⇒愛の結晶。その思いに近づきたい

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キリストの聖体(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

キリストの聖体(C年)の説教=ルカ9・11b~17

2022年6月19日

きょうはご聖体の祝日です。

主のご聖体は、地上のいっさいの罪をその身に受け取り、そして、それをゆるし、つつみこんでしまわれたイエスのわたしたちへの愛の結晶なのです。その愛の記念として思い起こし、より多くの人がこの恵みに与ることができるよう、聖体の秘跡が残されました。したがって、聖体をいただくたびに、わたしたちは、イエスを十字架に追いやった罪を悔い、そして、その罪をはるかに超えた主の愛の恵みをいただくことができます。

そして、今のこの現実の社会の中で、この記念は続けられ、日々の生の営みの中で、主の愛が絶えることなくわたしたちすべてに恵まれています。

最近新聞で読んだ「エシカル消費」とは 

その社会では近年、「エシカル消費」への関心が高まっているといいます。「エシカル消費」とは、気候変動や人権侵害などの社会問題に配慮した消費のことです。

金融教育ディレクターの橋本長明さんに「エシカル消費」について尋ねています。「エシカルは倫理的という意味で、人や社会、環境に気を配った消費です。再生資源の利用、公正取引など生産や流通の過程に配慮がなされたもので、自分の満足だけでなく、他者のことも考えた消費といえます。」と説明されます。(南日本新聞2022年6月12日朝刊)

人が生まれながらにして保有している「他者への配慮」が、万人が発揮できる形、消費活動として歓迎されることではないかと感じております。何故かといえば、「わたしが満足できればいい」「自分さえよければ・・」「人に迷惑をかけているわけではないので」という考えが、行動の基準になっている感がしてしまう現代にあって、より肯定的な、積極的な動きではないかと感じ入っているからです。

他者への配慮、地球環境を考えた行動へ

橋本さんはさらに言われます。「一人の行動は小さくても、個人消費は経済で大きなウエートを占めています。いつも買うものをエシカル商品に変え、毎日少しずつ続ける。一人でも多くの人が続ければ、大きな影響力を持ちます。」と。「塵も積もれば山となる」ということでしょう。小事をおろそかにすることは、どんなことにおいてもあってはいけないことですね。その先に大きなこと、それも期待していたこと以上の実りが生まれます。これがわたしたちの人生だし、さらなる実りとして、周りの人々を変え、社会をよりよく変えるほどの大事を起こすことができるようになります。

具体的には、・・橋本さんは続けます。「すでになじみがあるものです。地産地消、オーガニック(有機農産物)、リサイクルやアップサイクル、生産者と公正に取引したフェアトレードなどで、普段の食品や衣類の購入時、表示や認証マークを見てください。そういう商品を選ぶことがエシカル消費につながります」と。

キリストの聖体:すべての人が食べて満腹し、パンの屑が12籠も残った
キリストの聖体(C年)の福音=ルカ9・11b~17 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

何といっても基本的に大事なことは、「おかげさま、お互いさま」という感謝の気持ちを意識し、自らの中に育てて豊かにしていくことではないでしょうか。立ち止まって他者を思うゆとりがほしいものです。

聖体制定時にも見えていた”人間の醜さ”

イエスはまさに、他者を一杯思い、やさしく対応してくれる心を持ち合わせていた方でした。その心を表現しているもの、それが今日の聖体の祝日であるということができます。そして、その記念すべき聖体制定の背景にあるのは、イエスの気持ちとは裏腹に、人間の醜いエゴイズムがありました。イエスを取り巻く人々の心から、策略と悪と罪がとめどもなく噴き出してくるのです。ユダにいたっては、金銭をごまかし、イエスや仲間の信頼を裏切り、それがきわみにまで達したのです。これらが、イエスを引き渡す引き金となり、ユダと祭司たちの間で、銀貨30枚で引き渡しが成立します。その晩に、聖体制定がなされました。

ユダのみならず、ペトロを含む他の弟子たちも、その罪がきわみに達します。自分たちの身の保全を優先し、師を捨てて逃げ去ります。人間としての弱さ、いい加減さが暴露されたのです。

当時の指導者階級にあった祭司や長老たちとて同じことでした。イエスの活躍により、自分たちの存在が危ぶまれたのです。イエスの存在が自分たちのためにならないと思い込んでしまった彼らにとって、権力を使うのはたやすいことでした。それにより不正な裁判がなされ、イエスは身も心もズタズタにされてしまうのです。

三者三葉とはいえ、根底に流れる考え、傾向は一緒であると思います。それは「利己主義」「自分勝手」ということではないでしょうか。

これらの出来事により、イエスはその夜渡され、まったくの孤独になってしまいます。言うまでもなく、イエスの身心の苦しみも、きわみにまで達したのでした。そして「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ22章42節)との祈りを捧げるほどに追い詰められてしまったのです。

イエスはそれでも!わたしたちのために

こうした環境に身を置きながらも、イエスは人々のために心を閉ざすことなく、むしろ、その人たちのために祈り、ゆるしを願うのです。ご自分の苦しみを捧げつつ、その人々を救おうとなさるのです。このことは、イエスの中で、人間への愛がきわみに達していることを示しています。この愛を記念してこの地上に残されたのが「聖体の秘跡」なのです。

ご聖体こそ、わたしたちの中にある罪を背負い、そして、それをゆるし、その上に、愛の力を与えてくれるめぐみです。

自己中心的になりがちなわたしたちですが、自らを大事にしようと思うかぎり、それは、他者を大事にすることを同時に意味し、そのことを意識していきたいです。

「エシカル消費」は、人間が持ち合させている本来の姿「他者を慮る」心を生かしている「くらしUP術」ではないかと思います。より人間らしくなっていきます。

同じく、より信者らしくなっていくために、しばしば聖体を訪問し、拝領することは、イエスの思いに近づく「UP術」と表現してもいいものでしょうか、・・?

神に感謝。

 

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