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年間第13主日:無力な自分に気づいたら、神の前に謙虚に自らをさらけ出す

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年間第13主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第13主日(B年)の説教=マルコ5・21-43

2021年6月27日

幼児、児童、生徒等に関する事件・事故が起きると、その度に「提言書」なるものが出されます。それも、かなりの時間を経過して後のこととなります。そして、互いに似たような事件が連続して起きても、ニュースを見る限りの印象ですが、同じようなミスで引き起こされた事件のような気がしてなりません。その度に、わたしだけでしょうか、非常な残念さを感じてしまいます。

若年者の問題が起きた際の行政の対応から

2019年8月に出水市(鹿児島県)で起きた女児(当時4歳)の死亡事案がありました。同市児童虐待再発防止検討委員会が去る16日、提言集をまとめ市に提出しています。その中で、当時の出水市の対応について「リスク評価が十分でなかった」と指摘しています。(南日本新聞2021年6月17日朝刊)

同委員会は、市独自の再発防止策を検討するために、2020年10月、弁護士や学者、医師、県中央児童相談所、県警の代表者5人で発足したのです。県の審議会部会が2020年9月にまとめた検証報告書を踏まえ、対応の問題点を改めて確認しております。それによると、「職員の専門的知識が不十分」「要保護児童対策地域協議会(要対協)が機能していなかった」といった9点を課題として報告しています。

この提言書を受け取った出水市の椎木伸一市長は「真摯に受け止め、スピード感をもって対応し再発防止に努めたい」と話しています。さらに提言書が指摘していることがあります。それは、虐待事案を自治体同士で引きついだ際の危機感に差があった、ということです。このことを踏まえて、鹿児島女子短大の平本譲准教授(55歳)=子ども家庭福祉学=は「虐待に即応できる専門性とネットワーク構築が急がれる」と強調しています。

最も大事なことは子どもの救いのはずだが

このような問題がおきるたびに思うのは、妙な言い方になりますが、事件の「中心」にいるのは子ども自身です。人間です。その子どもに対応するのも人間(職員)です。「子ども自身」の立場が何も話のステージに上ってこないのは何なんでしょう、ということです。「専門性」という時、どのようなことを指すのかわかりませんが、子どもの心身の発達(成長)段階を研究する専門性があってもおかしくないのではないかと思ってしまいます。事件再発防止体制の確立、検証、改善は必要です。さらに、その前提となる最も大事なのは命をもった「人」でしょう。マニュアルを作成するだけが目標、第一ではないと思います。その当事者「人」の救いです。

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イエスは、やはり「人」をとても大事にしました。ユダヤ人、異邦人に関係なくです。そのことを述べているのが今日の福音書の話、ヤイロの娘の話です。

人は無力を知った時が真実に目覚める好機

幸せな家庭生活、順風満帆な日々、これは誰もが望み、願っている姿でしょう。しかし、現実は、自分の意のままに得られるものではありませんよね。そのことは重々わかっていますが、それでも願い続けるのです。それでも、幸せな状態は意外と簡単に崩れ去っていきます。そして、人は自らの無力さを知らされ、苦しみのどん底に追いやられてしまいます。大事なことは、その状態のままに留まらないことです。どんなことも、どのような状態でも、真実なものに目覚めるチャンスになりえるからです。

ヤイロ、かれは会堂長です。社会的に地位のある人で、人々に尊敬され、身分が保証され、財政的にもゆとりある存在でした。幸せな家族の日々であったと思われます。そこに愛娘の病が発覚します。しかも12歳です。ヤイロにとって、かわいい限りではないでしょうか。その子が死の危険におびやかされているのです。ところが、その現実を前に、父親としての彼はなす術がないのです。いとおしい娘を苦しみの中から救いたいという思いは強くても、何もできない、どうしようもないもどかしさ、どうしようもない無力感が、ヤイロをして願いの「祈り」へと誘います。

しかし、困り果てたからすぐに「祈り」へと向かうかといえば、人によっては必ずしもそうではありません。自分一人の危機や行き詰まりであれば、何が何でも自力で乗り越えようとして頑張る人はいます。そうできなかったとしても「祈り」への道に進むとは限りません。より自分に可能な他の道を選択します。

ヤイロは地位に拘らずイエスの前に跪いた

ところが、相手が自分が愛する人、大事にしている人の場合はどうでしょう。今日のヤイロ自身の場合がそうです。彼は、自分の地位や威厳にこだわることなく、イエスの前に跪きました。まさに、溺れる者は藁をもつかむ思いでイエスの前に進み出たのでしょう。それは、自らの無力さを告白していることであり、娘が死なないで助かることだけを求めた、一父親としての、会堂長ではなく、姿でした。目に入れても痛くないほどに可愛がっているのではないでしょうか。愛情の絆でつながっているのです。その愛がまことであればあるほどに、愛する人の死の危機は人間をより謙虚にしていきます。自尊心もかなぐり捨てて、神の前に手を合わせるようになっていくのではないでしょうか。恥も外聞も忘れてイエスの前にひれ伏す姿に、彼の謙虚さをうかがい知ることができます。

虐待で命を落としていく子どもたち。再発防止対策に取り組む識者(専門家)とその子たちとのかかわり、その事案に対応する職員と子どもたちとのかかわりはどうなんでしょう。せめて、職員のなかに、子どものいのち、その成長過程についての専門知識と尊敬心をも磨いてほしいものだと思うのですが、・・。より良い「自分」を求めて。

ヤイロは、娘のために自らをさらけ出しました。願い出ました。自分の無力さを知って・・。どんなことにも自分の限界を知りつつ、助け合って共に前に進みたいですね。

人とのおつきあいはいつも「アナログ」です。

【6月27日】年間第13主日(B年)の聖書はこちら

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