年間第14主日:神から無限に「愛されているわたし」の自覚を

年間第14主日(A年)の説教=マタイ11.25~30

2011年7月3日

神のみことば

いつもと違う体験をするとき、場合によっては、精神が不安になり、怖さを覚えてしまうことがあるでしょう。このことは、人は自分ひとりでは生きていけないことをみごとに表現していると思います。おのずと、誰かに助けてもらいたく、親しい人、専門家のところに(医者、カウンセラー等)走りよります。

「貧すれば鈍す」ということわざがあります。“貧乏になると賢い人でも頭の働きが鈍くなる”という意味と、“落ちぶれるとさもしい心をもつようになる”という意味があるようです。いずれにしても、通常でなくなることの度合いが大きければ大きいだけ、惨めさも倍加していきます。この体験をするのにバリアはありません。誰が体験してもおかしくないのです。

イエスさまの時代の民衆の指導者たちは、意外とこのような人が多かったのかなという印象をいだきます。それに引き換え、イエスさまご自身は、人々に呼びかけ、ご自分のところに人々をご招待なさいます。それも無差別に。呼ばれるほうになんらの条件もつけません。

「労苦する者、重荷を負う者は、みなわたしのもとにくるがよい。わたしはあなたたちを休ませよう。わたしは心の柔和、けんそんな者であるから」(28節)と。この言葉にはイエスさまの利己的な傾きはありません。ひたすら、わたしたちのために開かれたやさしさと愛情にあふれた姿があります。

年間第14主日:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
年間第14主日(A年)の聖書(マタイ11・25~30)そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

わたしたちもそうありたいと思いつつ、そうではない自分を感じます。どうしてでしょうか。一言で言えば、愛されている自分に気づいていないということでしょうか。

イエスさまとおん父との関係が、わたしたちとイエスさまとの関係にあることを自覚することではないでしょうか。ここにすべての人に対する自己開示の力と勇気をいただく根拠があります。神の無限の「招待」に対する返事を、これからの生き方の中で見せていきましょう。

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