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年間第26主日:自分の周りの声なき声、叫びに心の耳を研ぎ澄まそう

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年間第26主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第26主日(C年)の説教=ルカ16・19~31

2022年9月25日

差別はダメ!と分かりながら、現実には…

わたしたちの周りにはたくさんの方々が生活を共にしています。国籍を異にしている人、趣味、好みがそれぞれに違う人々、その他年齢の差、能力の差、貧富の差を感じながらも、「生きる」ことに関しては人間として「同じ生命」を生きています。人としてはみな等しく、そこに違い、差はありません。「差別感」を作るのは、同じく生きている人間じゃないのか、そのことに大いに気づき、回心したいものであると思っています。

ところが、現実にはいろいろな点に、差別を感じさせることが多々見受けられます。あってはいけないと思っているのでしょうが、どうしても人の中にある「欲」がそうさせているのです。悲しいことではあります。情けないことでもあります。そうわかっているだけに、苦しさを覚える時があるのです。そのような状況を前にして、心のうちでもだえ苦しむのです。いいことをしたいという「欲求」と、どうでもいいじゃないという「欲望」との間に葛藤が、自らのうちで始まるのです。

選挙の”清き一票”は、同じ重さのはずが…

「選挙に落ちればただの人」このフレーズは、民主主義の国では一つの真理だといわれます。だから、多くの議員は、次の選挙に向けて全力を挙げます。今、ある宗教団体と政党との関係が問題視されています。無償で選挙運動を手伝い、票集めに貢献する人たちは、当然のごとく大歓迎されます。また、議員が発する教団トップをたたえる言葉も信仰からではないでしょう。まさに選挙至上主義です、という報道がなされています。(南日本新聞2022年9月19日朝刊)

かつて、総選挙の時が来ると、候補者も、また投票する国民の心の中にもあったもの、それは「清き一票」という言葉であり、票の持つ意味合いだったのではないでしょうか。「あなたの清き一票をわたくしにお願いいたします」と候補者の、スピーカーを通してその呼びかけを聞くものでした。あの「清さ」はどこにいったのでしょうね。「何言ってんの。時代は過ぎたんだよ。そんな『子ども染みた』ことを言って、世間の笑いものだよ」と言われそうな気がしなくもありません。

現実には「組織票」が大きな力を持ち

でも、その清き一票は、有権者の心からの声、叫びであることに、昔も今も変わりはないでしょう。中には、「声なき声」を一票の投票権を通して、候補者に託そうとした方も、当然いらっしゃると思います。ところが、最近というか以前からですが、ずっと気になっていることは、「組織票」という言葉です。その言葉が意味する実態はどんなものなのか、わかるような気もしますが、それこそ一人ひとりの思い、心が込められているのでしょうかね。打算的、刹那的、功利主義的な計算が入っているのではないかという疑念を、振り払うことができない現実はどうしたものでしょうか。これが、時代が過ぎた「現代的な『清き』一票」なのでしょうか。「声なき声」に耳を傾けるというよりも、「当選するために」が最優先なのです。もちろん当選することは、候補者にとって大事なことです。一方で、有権者の僅かでも、小さな声を聞き洩らさない一票でありたいです。ぜひそうあって欲しいです。

金持ちと貧しいラザロの話から学ぶべきは

今日の福音書では、二人の人物が登場します。二人の立場があまりにも違い過ぎます。一人は貧しい人、もう一人は金持ちです。金持ちの毎日は、現代の人でもそうでしょうが、気ままに思い通りの楽しみを独り占めしています。他方、貧しい人・ラザロは、毎日の食物にも事欠く始末です。

年間第26主日:モーセと預言者に耳を傾けないのなら、死から生き返る者の言うことも聞き入れはしない
年間第26主日(C年)の聖書=ルカ16・19~31 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

ところが、この二人はこの世で生きている間にも対照的な生き方、あり方だったのに、死後も、これまた対照的な姿を見せています。イエスは次のように語っています。「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」と。この個所を初めて読む人にとっては、誤解を招いてしまうのかなと思います。というのは、この世での金持ちは、死後、必ず陰府、地獄に行くものなんだと感じさせてしまう印象を与えそうだからです。

しかし、そうではありませんよ、とイエスは続けます。金を、多くの資産を持っていた事が陰府で苦しみもだえる理由ではないのです。毎日のように「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」だけなんですが・・、金持ちは、何も特別に願っていないラザロに、何の意思表示もしていない彼ですが、そのラザロに気づいていない、気づいていたとしても無視し続けた金持ちの行動が、死後の彼の姿なのです。なんと言っても、そこ門前にいる、そのことがラザロからの叫びであり、意思表示だったのです。そのことをイエスは指摘なさいます。

金持ちの非は、ラザロの心の叫びに無頓着

金持ちは自らの楽しみたい、仕事の利益を得たいなどの「欲」に振り回されてしまって、ラザロに対する関心、配慮が不足していたのです。いわゆる「寄り添う」姿がまったくありませんでした。人間は、自分の内側からの叫びに引きずられると、外側のものに、ことに無頓着になりがちです。だから、ラザロの存在に気づくことができなかったのでしょう。そのために、死後、燃える炎に苦しめられているのです。

大事なことは、生きている間の一人ひとりの「生きている姿」が、死後のあり方を決定しまうということです。わたしたち一人ひとりの生きているひとこまひとこまの中に、死後の世界につながる重さが横たわっているということです。だから、その時々を大事にして生きましょう。

だからこそ、声なき声、叫びに心の耳を研ぎ澄ましましょう。そして、できることに応えていきましょう。その気になれば、皆、できます。

神の支えを感じ、感謝しながら、自らがすすめる方向をしっかりと見つめ、前に押し進め、動きましょう。必ず、それは皆が喜んでくれるいいことです。

いつも神は「わたし」とともにいるからです、・・・。

 

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