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年間第26主日:イエスの「気の置けない」弟子、友になっているでしょうか

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年間第26主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第26主日(B年)の説教=マルコ9・38~43、45、47~48

2021年9月26日

コロナ禍で人同士の絆に歪みが入ってしまった

この一年半余り、「新型コロナ」のニュースを聞かない日はなかったのではないでしょうか。それほどに、新しいウイルスは、わたしたちの日常生活の中で、密接につながってしまいました。コロナのせいもありますが、日常は皮肉なものですね。固い、深い交わりを持ちたくない「もの」(ウイルス)と近くなったり、持ちたい「者」(親・子)とは遠くになったりと、わたしたちの周りでは矛盾した光景が毎日のように展開されていきます。これが今の現実です。もちろん、後者は回復されていくことが何よりも大事で、豊かにしていきたいことです。

何と言っても、「気の置けない」間柄ですし、「愚痴を言い合える」関係だからです。こうしたかかかわりがあるからこそ、お互いがより良い人間として成長していけるのだと思っています。ところが、この一年半のコロナ禍で、その絆に歪みが入ってしまいました。とても残念なことです。「しょうがない」とため込むのではなく、その気持ちを外に表現する機会を作っていきたいものです。

「気の置けない」間柄で、愚痴を言い合うことは大事だと進言する方がいらっしゃいます。おっしゃるには、「友だちと愚痴を言い合うことは、心の健康のために大切です」と。(南日本新聞2021年9月21日朝刊)

感染対策は必要だが、交流も忘れてはならない

また、コロナいじめ・差別を受ける人が、現にいるという事実を前にして、助言しておられます。「今は誰もが不安に陥りやすい世界的に異常な状態です。不安や不満を人と共有すると、自分だけではないと安心できます。眠れない、イライラする、やる気が出ないなどはストレスのサインなので、そんな時は周囲に相談しましょう」と。このようにおっしゃるのは、志學館大学(鹿児島市)の白井祐浩准教授(41歳)です。

新型コロナウイルスの感染症対策は大事なことです。その一方で、人間にとって大事な、欠かすことのできない「近所付き合い」その他の人との交流が封鎖されてしまっては、心身のほどよい成長が阻害されてしまうのも、困ってしまいます。それでも、コロナ対策は「人流」を避けること、密なる会食を回避すること等、ことごとく人同士の交わりを遠ざけざるを得ないのです。まことに弱り切ってしまいます。

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イエスは気の置けない相手を求めて旅から旅へ

今のわたしたちが生きている現場では、人を人から遠ざけてしまうことが「よし」とされていますが、本来はそんなことがあってはいけないのです。「気の置けない」相手を求めて、イエスは旅から旅へと歩かれます。そのイエスの一番近いところで、手ほどきを受けた弟子たち。彼らの中には、いつの間にか、イエスのそばに選ばれた、または、大切にされてきたという「特権意識」が身についたのでしょうか、人々を自分たちに従属させようとします。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」という弟子たちにイエスは言われます。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と。

イエスから人を遠ざける行為、それはイエスを裏切る行為になると、弟子たちであればわかっているはずなのです。だからイエスはそう言われたのでした。

現実のわたしたちも、何かの肩書、地位、権限をもらいますと、自ずと、何か「偉くなった自分」になってしまうのか、それまでの自分とどこか違った雰囲気を感じてしまうのでしょうか、態度・振舞い方が変わってしまう人がいます。

「地位は人を作る」という言葉がありますが、今でも通用する言葉なのでしょうか。本来の意味は、「それなりの地位に就くと、その地位にふさわしい人間に成長していくということ」なのでしょうが、地位が上がることによって、単に威張り散らすだけの人が最近増えてきたといわれます。「給料が上がった。部下が増えた」だけの上司が増えたというわけです。

交流の根底にあるべきは、相手の救いを願う心

このような人は、人との交わりが、自らの人としての成長につながっていない、むしろ、自己満足、自己の利益追求のために、自分の権力志向のために、他者を利用するだけの人間で終わってしまいます。これほど高慢なことはないでしょう。

わたしたちの願い、目指す生きる姿は、家族仲良く、全人類が平和の裡に助け合い、補い合って共に前に進んで行くこと、換言すれば、安心・安全・平和の心を豊かに生き抜くことでしょう。そこに真の救いを願う姿があると思います。つまり、派閥意識や人間の面子にこだわらない姿、それは、相手の救いを中心にした姿であり、さらに発展していきます。「気の置けない」仲間との分かち合いであり、その報いはいつの間にか自分の救いにつながっているのです。

これが、本来の人間の営みです。その保証は、イエスの十字架の業を筆頭に、イエスの行動全体にあります。それは、わたしたち一人ひとりを中心としたイエスの愛の業だからです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、・・・」このような小さな人の上にも、イエスの愛の業は及んでいるのです。

わたしたち一人ひとりは、イエスにとって「気の置けない」弟子であり、友なのです。この事実を日常の出来事の中で、さらに感じたいですね。

 

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