年間第26主日(B年)の説教=マルコ9.38~43、45、47~48

2012年9月30日

主との出会い

先週は、民主党の代表と、自民党では総裁の選挙があり、それぞれに新体制が決まりました。いつの時代もそうでしょうが、マスメディアがどのように取り上げるかによって、民衆の考え方が影響を受けます。さらに、どうしても力のある層が時代を引っ張り、人に影響を与えていきます。そして話題をさらっていくのです。

それでも国民の生活は、その話題とは関係なく進んでいきます。ここに、特に大震災の被害を受けた人々には苛立ちがあったのではないでしょうか。生きることは現実のことであり、「今」のことなんです。それを人間の俗っぽさと言われようとも、生きる上で、わたしたちの前にはだかる大きなバリアなのです。

ところが、この人間っぽいところが、イエスさまの心にとまるのです。弟子たちの人間っぽさは、主流派意識、派閥意識、選民意識ですが、そうした面子にこだわってはいけないのだ、と指摘されます。弟子たちが新たな脱皮をし、成長していくためのきっかけになったのが、人間らしい「人間っぽさ」だったのです。自己を直視している弟子たちがありました。

今日の福音は、このことをいっています。すなわち、弟子たちは、イエスさまのそばにいてその教えを聞き、よりたくさんのことを知り、選ばれたものであるという自負心が、イエスさまの名を使って悪霊を追い出している人を、自分たちに従属させようとしてしまうのです。面子に左右されているところに、真の救いはあり得ないとイエスさまはおっしゃいます。つまり、人間的な満足を求める言動に、自己中心に動く人に、まことに人を救えるものかどうか。

イエスさまはご自分のすべてをかけるのです。イエスさまは神であるにもかかわらず、神であることを誇示しなかったとパウロは宣言しています。わたしたち一人ひとりを大事にされたのでした。したがって、どんな人であれ、イエスさまの名が広められている事実は喜ばしいことである、とイエスさまは弟子たちに伝えたかったのでしょう。狭い心ではなく、広い心をそなえた人として動く時、イエスさまの意図することが分かり、真の救いに到達できるのです。そこには俗っぽい駆け引きは存在しません。

「変わる」ということはまず、自分の中から始まります。人に変わるように要求できるものでもないでしょう。この鉄則を大事に、少なくとも有言実行であり続けたいものです。人間っぽさを超えた本物の自分に触れてみたいです。それほどに自分が分かっていないのが現実ではないか、・・・。