年間第26主日:おもてなしは敏感な感受性をとぎすますこと

年間第26主日(C年)の説教= ルカ16.19~31

2013年9月29日    

寄り添うイエス日本人であることの特徴、個性は何でしょうか。先日、2020年のオリンピック開催地が東京に決定しました。その誘致のための最後のプレゼンテーションがブエノスアイレスでありました。話題になったものの一つに、滝川クリステルさんのプレゼンの中での「オ・モ・テ・ナ・シ」があります。

改めて考えてみますと、とてもいい言葉だな、温かみを感じさせる表現だなと思いました。具体的には、どのようになるのか現在は混沌としていますが、徐々にはっきりさせていくのが日本流です。準備にじっくりと時間をかけ、決まったらすばやく走り出す、ここが「日本流の魅力」ではないでしょうか。そして、いま一つの日本の特徴は、「かゆいところに手が届く」おもてなしを大事にしているということでしょうか。

この「おもてなし」は他者に開かれた人間本来の生き方が込められています。自分が持っている命も財産も、すべてが他者のために活かされてこそ、本来の価値が、重みが出てきます。自分が持っているものは、所詮、自分のためだけにあるのではなく、人のためにあって、結果として自分に戻ってくるものです。そして、ますます豊かになっていくのです。

年間第26主日:モーセと預言者に耳を傾けないのなら、死から生き返る者の言うことも聞き入れはしない
年間第26主日(C年)の聖書=ルカ16・19~31 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

今日の福音に登場する金持ちは、その財産の使い方と評価を間違いました。金持ちであることが死後、炎の中でもだえ苦しむ理由ではありません。それこそ、自分の門の前に座っているラザロの存在に目をくれず、その姿から発されている声なき声に気付かなかったのでした。積極的に声を出して、ラザロが何かを願った風でもありません。「その食卓からこぼれてくるもので、飢えをしのごうと望んでいた」だけでした。

つまり、金持ちとして、貧しい人にできたであろう「おもてなし」の心に無関心だったのでした。わたしたちの一生の一瞬一瞬の中に、人との出会い、出来事の中に、死後の世界につながる、つまり神の「おもてなし」を受けるに見合う重みが秘められていると言えます。だから、無駄な生き方はないのです。アンテナをめぐらし、敏感な感受性をとぎすます事が大事です。

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