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主の変容:「わたし」の道と「呼び出され、与えられた」道

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主の変容(2023年8月6日)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

主の変容(A年)の説教=マタイ17・1~9

2023年8月6日

夏休み、休暇は心身に好影響をもたらす

「夏休み」といえば、何となく休暇、休養等、どこかに「ゆっくりしなくては」、という雰囲気が漂い始めます。日本社会が、自ずとそのような気持ちに傾いていきます。だからこそ休みを取りやすくなるんでしょう。ごく自然な雰囲気になり、遠慮して「休暇を」という風でもありませんよね。日本社会ばかりではありませんが、いい意味で習慣化してくると、その考え方、動きそのものにも、なんとも「ぎくしゃく感」がなくなります。いわゆる、休暇を取ることが「恒例化」していくのでしょう。「自然体」は、心身にも好影響をもたらします。

また、休暇の過ごし方をいかにするか、普通だと自ら計画を立て、効果的な楽しい休みにしようとします。ところが、知らない土地での観光となると、未知の地域なのでなかなか要領を得ません。多くの人、特に子ども連れの家族旅行では、すでに企画されている旅行会社のプランを利用する場合が多いのではないでしょうか。特に海外旅行となると、全くと言っていいほどに、旅行会社に頼り切ってしまいがちです。旅行会社からのお招きプランの中から、「自分」たちの希望、計画に合った旅行プランを選択していくということになります。百パーセント満足いくプランはないかもしれませんが、「自分」たちの望みに少しでも叶いそうなプランであれば、妥協してしまいますよね。そのせいか、計画が遂行されても何か満足感がないというか、すっきりとしない感情になること、時が、場合によってあります。

自分の人生、実は自分のものではない?

それは、あくまでも、いつもその計画を考え、実行する真ん中にいる「自分」が、不安を感じ、情けなくなり、空しくなること、時があるからではないでしょうか。そうじゃないですか?その原因は、ほとんどが「自分自身」にあるといわざるを得ません。つまり、苦しみや悲しみのない、明るさにつつまれた幸せ、それはすべての人間が求めていることですが、長続きするわけがないからでしょうか。さらにつきつめれば、確かに「自分」の人生ではあるんですが、その実、「自分」のものではないのです。

イエスがその真実を具現化しています。それというのは、わたしたち人間の場合、「与えられたいのち」を生きているということです。自分自身の思いが先というのではなく、「与えてくださった方」の意向が優先される生き方なのです。このことをその生涯の中で実現させたのがイエスです。イエスは次のように祈っています。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。(ヨハネ福音書17章2節~4節)

イエスの業は、父から委ねられたもの

今日の福音、タボル山での「主の変容」はイエスの召命の神秘を示そうとしています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」のです。この表現はイエスの復活の話を語るときと同じ表現です。(マタイ28章3節)輝きとまぶしいほどの白さは、心的世界の特徴です。汚れのなさのしるしでもあります。いずれにしても、イエスの業は、父から委ねられたままになされたものであることが明らかです。そのような歩みに自らをゆだねることが出来るのは、遣わされた方がまがいものではないと信じられるときです。わたしたちの信仰の根拠もそうですよね。

主の変容:これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け
主の変容(A年)の福音=マタイ17・1~9 〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

変容の出来事のさなかに、ペトロが口をはさんできます。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と。ぺトロがこのように口走ったのは、自分たちが生きている日常を超えた、永遠の世界に触れた今、その幸せを手元に残しておきたくて、神に提案したものでした。

”これに聞け”は神の呼び出し&新たな道

それに対して雲の中からの声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。この声は、新たに神からのペトロたちへの「呼び出し」であり、新たに「与えられた」彼らの歩みが示されたのです。これこそ「呼び出されて、与えられた」ものとしての新たな弟子たちの人生となります。

《四旬節第2主日=2023年3月5日=の》第一朗読のアブラハムも「呼び出されて、与えられた」道を歩んでいったのです。神がアブラハムに 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1節~3節)と語りかけたとき、彼は「主の言葉に従って旅立った」(同上4節)のです。

アブラハムはその行動において、自分を旅へと促した方が信じるに値する方であるということを認めたということです。その人生がうまくいくかいかないか、自分がその中心にいることが第一にならなくなったのです。

そして、今のわたしたちにとっては、その生き方の模範を示してくれたイエスに聞く、まねることが「信じる」ということなります。確かに「わたしの人生」なんですが、屈辱と汚れの人生を歩まれたイエスの神秘に、しっかりと自分の人生を合わせることです。

三人の弟子たちが呼び出され、あらたな任務に派遣されるその始まりが、今日の変容の主日に示されています。

さあ、「わたし」はどの道を示され、派遣されている・・・?

 

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