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年間第17主日:中身や伝え方の工夫など、キリスト者側にも責任がある?

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年間第17主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第17主日(A年)の説教=マタイ13・44~52

2023年7月30日

高齢でも意欲的に目標を掲げ行動する人も

改まって問われると、妙に感じてしまうかもしれませんが、でも現実的にそれを考える時って、思っているほどにないのかもしれません。それというのは「あなたの人生はいかがですか」という自問自答です。

どうでしょうか。一般的にいって、「死を意識するとき」に振り返る人が多いのではないかと、「わが人生はこれでよかったのかな」と。

まだ、幼いころ誕生日などによく「大きくなったら何になりたい?」と大人は子どもによく聞くのではないでしょうか。それは、これからがその子の人生が始まるからですよね。しかし、現実にはすでに始まっているんですけれども・・。それでも、これからの年月が、その子の一生の大半を占めているから、これは子どもには意識されてはいないんですが、大人が勝手に抱いているだけ、これも自然な在り方でしょうかね。

以前の親たちが、よく口にしていた言葉があります。今では聞かれなくなりました。「自分が出来なかっとことを子どもに託す」と。子どもにとっては、はなはだ迷惑な話かもしれないんですが、それを成し遂げた人もいます。歴史とともに人の感じ方、考え方、なんといっても人の見方が変わってきたのではないでしょうか。見方が変わると、当然のこと、それに関係することがらも必然的に変化してきます。

今までは、年を重ねると神が迎えに来るまで「待つ人生」だったのが、これまた変化してきました。ただ「待つ」だけでなく、いわば、受け身の人生を能動的な人生に変えていくお年寄りが出てきたのです。つまりは、老後を積極的に楽しむ人たちが増えてきました。逆にいえば、年を取って、心身の衰えを感じさせない、健康なお年寄りが増えてきたということでしょう。そして、目標をもって前に進んでいくのです。

有言実行”次の目標は80歳までに地球3周”
「10年かけて1億2500万歩」のニュースが出ていました。(南日本新聞2023年7月25日朝刊)

薩摩川内市中郷町の田代一憲さん(74歳)です。彼がウォーキングで、目標とする地球2周分(8万154キロ)に達したのは2020年3月。その後の状況を聞こうと連絡を取ると、まだ歩みを止めず、距離は2周半に達していたというのです。歩き始めたのは2011年の元日。それまで散歩の習慣はなく、高い血糖値を下げるのが目的だったのです。友人に目標を持てと言われて、地球1周分を目指すと宣言してしまったそうなんです。2015年に目標の地球1周、2020年の誕生日3月31日に2週に達したのです。その後も継続し、今月の19日時点で1億6066万歩、10万655キロまで伸びています。

田代さんは長く続ける理由を「周りに宣言したから。有限実行しなきゃという意地」と語っておられます。「元気なうちは続けたい。次の目標は80歳までに地球3周。まだまだ歩き続けないと」と笑って言われます。

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「元気なうちは」ということばは、若い頃に発する同じ表現とは違った意味合いを感じます。若いときはあれもしたい、これもしたいと、やりたいことがたくさん発想でき、またその気になれは可能な時期、年代です。ところが年を重ねてきますと、やりたいこと等が絞り込まれて、本人にとってはより賢明な道を選択してしまいます。それが人生のキャリアの賜物なんでしょう。おのずと自らの「健康寿命」を承知しているんですね。

現代の人々は何に飢え渇いているのだろう

今日の福音は二つのたとえ話がならべておかれています。話の内容としては同じものでしょう。それは「天の国」のたとえ話として、イエスを理解している弟子たちに向けられたものです。したがって、この話にはたとえ話の解き明かしが付け加えられていません。

例えの中の主人は、何かに飢えています。それが何なのかを自らも見極めることが出来ないでいます。わたしたちの世で言えば、それは何も信仰者でない人ばかりを指しているのではないでしょう。信仰者の中にも迷い続けている人は多数います。何がその正体、原因なのかが分かりません。だからこそ、立ち上がっていきたいと願っている人々がいるのです。

このような人々には、「畑に隠された宝」「良い真珠」のように、渇きをいやす根源的な存在者・神が隠されているのです。「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は孤独に苦しんでいます。誰も相手にしてくれないといって嘆き悲しんでいます。渇きが満たされないのは、どうしてなんでしょうか。善意ある人々、彼ら本人の責任なのでしょか。

そうではないでしょう。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人々のほうに責任があるように思います。その時代の人々が抱えている問題、また不安に対して、キリストのメッセージをいかに伝えているのか、その中身、伝え方の工夫はどうなのか、問われることがありはしないでしょうか。

”隠された宝探し”時代に合った手助け必要

イエスの福音のたとえ話の特徴は古い伝承を用いながら、また、日常の生活のありさまを話題にして語るということです。弟子たちはそこから多くのことを学んできたのです。そして、弟子たちも「天の国」とは、持ち物をすべて売ってでも手に入れたいと願うほど貴重で、その上大きな喜びをもたらすものであるという神の働きを見出していったのです。これも、日常の中に隠されているものです。わたしたちはそれを探し当てるために、どのような手だすけを、求めている善意ある人々にしていけばいいのか、いつも問われることです。それが、わたしたちに託された宣教奉仕職であると思います。

薩摩川内市の田代さんは、年を取られて、その年になるまで隠されていた宝物を見出したのです。願わくはそこに、神の存在を感じられたらいいなと願わずにはいられません。

宣教するとは、実際に体を動かしてその人に会って語ることもあり、また、祈りで助け合うことだって、大事にしたい立派な宣教です。

今の「この時」のキリスト者の責任とは・・です。

 

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