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年間第17主日:祈りは、神の考えを聞き、神の働きに我を託すこと

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第17主日(C年)の説教=ルカ11・1~13

2019年7月28日

人は誰でも思わず祈りたい時やことがある

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。このことについて、次のような説明が掲載されています。「苦しいことや困ったことがあると、普段は信仰していない人も、神仏に祈ってその加護を願うということ。また、日ごろ付き合いのないような人にも、自分のつらいときだけたよろうとするたとえ」と。(「標準ことわざ慣用句辞典」旺文社)

思わず手を合わせてしまうとき、祈らなければならないと思う時って、みなの人が感じ、体験していることではないでしょうか。あくまでも、「わたし」が困ってしまったとき、どうしようもなくて、どう動けばいいのか、分からなくなってきたときであって、自己中心的であるといってもいいのではないでしょうか。でも、「祈る」始まりとしては、その動機はどんなことでもきっかけになります。実感のこもった祈りへの招きとしては、「わたし」のことから始まるのが通常ではないでしょうか。

京アニ放火事件でも多くの人が祈っている

先日18日、悲惨な事件が起こりました。連日報道されていますが、未だに真相は分かりません。「京都アニメーション放火事件」です。一瞬のうちに34名の命が奪われました。しかも、日本を代表する、世界的に親しまれていた、アニメ世界の財産だったといわれています。若い人たちに親しまれ、多くの人びとを勇気づけ、生きる力を、その作品からいただいていたといいます。

日本人のみならず、外国の方も、老若男女を問わない沢山の弔問者が、お花を手向けていらっしゃる姿は、この会社、社員の方々の功績をたたえ、偉大さを物語っています。たくさんの方々は何を祈っているのでしょうか。わたしたちがその祈りの中身を詮索する必要もなく、そういうことを考えること自体があり得ないこと。それ以上に、みなが等しく「手を合わせたくなる」否、「手を合わせてしまう」瞬間ではないんでしょうか。

どのように、何を祈っているのだろうか?

その時って、どう祈ればいいのか、何を祈ればいいのか、なんて考えていませんよね。自ずと自分の内側から、自ずと祈りがわき起ってくるのではないでしょうか。それが意識されていないだけでしょう。もちろんのこと、そこには利己的な恣意が入り込む余地は全くありません。この姿は、どんな人にもあります。「自分は無神論者です」といわれる方にもあるのではないでしょうか。その時が、一番素直な、純粋な自分を表現しているのではないんでしょうか、と思います。

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今日の福音書では、「主の祈り」といわれる、イエスが弟子たちに教えた祈りが出てまいります。わたしたちと同じような思いがあって、弟子たちもイエスに願ったのでしょう。

イエスが弟子たちに教えた「祈り」とは

ルカがわたしたちに伝えたい大事なことは、「父なる神」は、わたしたちと隔たりのある存在者ではないということです。そのことを伝えるために「父よ」という呼びかけで祈りが始まります。「父よ」という呼び方は、庶民が使っている、今だと「パパ」とか「父ちゃん」とかいう身近な親しみ感のある呼び方だそうです。ということは、親子の間におけるわだかまりのない関係を意味しています。イエスも「アバ」(父よ)ということばで祈りを始めておられます。こうすることによって、父なる神に対するイエスの敬愛の念を表現しているといえます。わたしたちの手の届かないところにいらっしゃる神ではなく、「わたし」の横に、前に、傍にいてくださる「父」なのです。

まずは、身近な存在である神への呼びかけ

わたしたちが黙っていても、わたしたちが遠くに離れていても、静かに見守り、援助の手を差し伸べようと待ち構えていらっしゃる「オヤジ」のような方なのです。こうした神の姿に元気づけられ、信頼をもってその神に委ねること、これが祈りであるとルカは強調したいのでしょう。

そこで、まず、わたしたちの叫び(祈り)は、神の働きを求めています。神の考えを聞くことなのです。これが、イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」の中心になっているといえます。

神の働きを求め、神の考えを聞くこと

そこで、「み国が来ますように」という願いは、父なる神の最大の関心事です。わたしたちにとっても同じではないでしょうか。同じ神を中心に互いに交わりを持っているわたしたちの姿、集い(共同体)そのものが、「み国」なんです。すでに始まっていますが、未だ完成されていません。その完成をただ望むだけでなく、具体的に動き出さなければいけないのです。それも、神から与えられる力を信じて「み国が来ますように」と祈り願うのです。

日ごとに必要な糧を求め、罪の赦しを願う

一方で、わたしたちの現実を眺めてみますと、いうまでもなく、弱さを抱きかかえた存在者です。自分に、自然界に、社会に対して、いつも限界を感じつつ、訴えるのです。「日ごとの糧を、日ごとにお与えください」「わたしたちの罪をお赦しください」「誘惑にあわせないでください」と。

「み国の完成」のためには、他者とのかかわりを横においてはできないということです。したがって、他者との正しいかかわりを持ち、特に大事だと思うのは「ゆるす」こと、「ゆるし合う」ことではないでしょうか。人との関係ができていなければ、神との関係も「偽り」であると、言われているようです。だから、神の力を、恵みを願って叫ぶのです。

「苦しい時の神頼み」というとき、今の「わたし」にとってはどんな「時」なんでしょうか。その「時」は、利己的なものになっていないでしょうか。

 

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