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復活節第2主日:人の常識を超えたところに発見される信仰の芽生え

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復活節第2主日(B年)の説教=ヨハネ20.19~31

2015年4月12日

message-eyecatch2その昔、「人生50年」と言っていた時代においては、今の長寿時代を想定することはできなかったことでしょう。街づくりにしても同じことが言えます。道幅をもっと広くとっておけばよかった、と悔やんでも後の祭りです。言い換えますと、人はその歴史を経て賢明になったということでしょうか。

「ものづくり」に関してはその経験は財産になって蓄積されていきます。そして、その熟練力は作品として輝きを見せてくれます。力量の高さ豊かさが見える形でわたしたちの前に公開されるのです。そしてまた、新たな挑戦が始まります。こうやって技術は引き継がれ、いつしか「伝統」がつくり上げられていきます。

「心の成長」も同じことが言えるのではないかと思うんですが、いかがでしょうか。つまり、目を覚まされる、開かれる時、出来事が、やはり、あります。

イエスさまの時代の弟子たちにとって、主の受難と復活は、まさに「青天の霹靂」だったのです。落ち込むと同時に新たな勇気と光を受けることのできた瞬間でもありました。中でも一番その影響を受けたのが、今日の福音に出てくるトマスです。

復活節第2主日:見たから信じるのか。見ないのに信じる人は幸いである
復活節第2主日(B年)の聖書=ヨハネ20・19~31 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

順風満帆に事が運ばれているときは、人は調子のいいことを言って気分爽快になります。ところが、事態が急変して、窮してしまうと落ち込んでしまいます。よくある話です。「自分のこの目で確かめるまで信じない」とトマスは断言します。心細さが丸出しです。

トマスという人は、その時その時を一生懸命生きようとしている、現代的な言い方をしますと、自分に正直な方なんではないかと思います。仲間から「主の復活」の話を聞いても、その真意がわからないまま、いや、分からないからこそ、人間的な常識のなかで判断しています。ここに、トマスの人としての誠実さを感じます。

どこまでもイエスさまに誠実であろうとする熱血漢であったと想像できます。それだけに、イエスさまの十字架にはやりきれなくなっていたのです。他の仲間と比べてひどく傷ついていたのです。だから一人仲間から離れ、イエスさまの初めてのご出現の時に同席していなかったのでした。イエスさまはトマスの心を読み、真っ先にトマスに声をかけられます。そして、確かめさせます。 「わが主よ、わが神よ」トマスの叫びです。死を乗り越えて復活したイエスさまの現実に遭遇したのです。人としてのトマスの喜びの声です。同時に、人の常識を超えたところに発見される信仰の芽生えを教えてくれています。

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