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復活節第2主日:信仰は、人間の常識を超えた世界(神)との出会い

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復活節第2主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

復活節第2主日(B年)の説教=ヨハネ20・19~31

2021年4月11日

「『昭ちゃん、学校へ行くのは簡単だね!』。2年間学校に行けなかった小5の子どもが、初めて教室登校した日、帰園するなり私に発した言葉だった。27年前のことであるが、今でも鮮明に思い出される」と語るのは、南さつま子どもの家園長の上薗昭二郎さんです。(南日本新聞2021年4月5日朝刊) 因みに、「昭ちゃん」とは、児童養護施設で児童指導員として勤務していた時の上薗さんの愛称だということです。

不登校の問題、主要原因は「コミュニケーション」

文部科学省によると、2019年度、不登校の児童生徒は18万人余で過去最多を更新し、ここ7年間増加し続けているとのことです。

不登校の問題は、その原因にはたくさんの要因が絡んでくると思います。中でも、大事なこと、それは、「コミュニケーション」という要因です。わたしたちはまず、特に赤ちゃんにとっては、お母さんが初めての相手になります。その後も、家族間のかかわりが土台となり付き合いの輪を広げていきます。ところが、それが不足していては、人としての成長がおろそかになってしまいます。日本人としての個性どころか、いろいろな面での「人として」の成長のために、栄養が十分にいきわたらなくなってしまう結果をまねいてしまいます。

上薗さんは指摘されます。それは、親(両親)の子どもへの接し方に齟齬が起きているということです。子どもを心配する母親に対して「甘えている。これくらいのことができなくてどうする」と思う父親。相談を受けるときは、子どものことより父母間の関係調整に時間を要するのだそうです。その過程で両親が丁寧にコミュニケーションをとっていく姿を見て、子どもも学んでいき、2人の肩の線がそろったところで、子どもはバランスよく立ち上がっていくと言われます。

平常に留まっているだけでは大事を見失うことも

さらに言われます。「子どもが何か言いかけた時、ちょっと手を休めて聴いてほしいということです」と。子どもが何かに逡巡して言いよどんだとき、大人はちょっと立ち止まる覚悟が必要だということです。このことは、歴史を重ねても、時が変わっても、子育てに当たっては変わることはないということができます。

わたしたちの生きている世界で、今はコロナ禍で非常事態の毎日といえます。でも、非常事態が毎日というのも異常ですよね。しかし、何がどのようにあれば日常状態なのでしょうか。全人類が一斉に「日常」を体験している時が、はたしてあったのでしょうか。今もどこかで、誰かが非日常を生きているのではありませんか。人は絶えず動き、変化していくからです。だったら、それはあり得ないということでしょう。

復活節第2主日:見たから信じるのか。見ないのに信じる人は幸いである
復活節第2主日(B年)の聖書=ヨハネ20・19~31 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

人の育ちの中で、その変化の動きを特に感じる時期があります。本人の記憶には残っていないでしょうが、3歳から6歳の時期です。しかも、誇張して言うならば、大人の常識では考えられない想定外の感性を秘めています。それが、時には、大人にとっては煩わしいことであったり、感情を害したり、挙句の果ては子どもに当たったりすることがあります。やはり「常識の世界・日常の世界」が穏やかな気持ちになれるのです。しかし、そこにばかり留まっていては、大事なものを見失ってしまうことにもなりかねません。

常識的なトマスには「復活」は信じられないこと

きょうの福音書に出てくる使徒トマスは、まさに、ごく普通の常識的な男でした。いわゆる、熱血漢とでもいえる使徒でした。「自分たちの手で葬った」人が生き返ったと言われれば、みなさんはどんな反応をしますか。多くの人は「まさか」と思われるのではないんでしょうか。人間の常識ではとうてい考えられない話だからです。だからこそ、まずは懐疑的な態度を取ってしまいます。トマスも「イエスが生き返った」と聞くと、同じ反応でした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。

トマスは福音書の中ではあまり目立たない存在です。共観福音書では12使徒のリストに名前が載っているだけです。しかし、ヨハネ福音書ではトマスの考えていることを言葉として記されています。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11章16節)「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14章5節)

これらはトマスがイエスの神秘を全く理解し、受け止めていないことを示しています。とはいっても、イエスと苦しみを分かち合い、自分が散っていくことに何ら惜しいとは思っていない人間としての誠実さをうかがうことはできます。生活が順調にいっているときは何もありませんが、事態が急変して正常でなくなると、やりきれない気持ちとともに態度も変化します。格好よく発言したにもかかわらず、そのことを全うできなくなるのです。

常識を超えた世界に目覚めた瞬間トマスは叫んだ

このようなことは、わたしたちの日常によくあることではないでしょうか。自分が言った内容の「格好良さ」がよければいいほど、落ち込んだときのショックも比例して大きくなります。懐疑的になっていきます。トマスも同じでした。だから、仲間の弟子たちとはじめは一緒におれなかったのです。自らの所為だとは言え、深く傷ついているトマスにイエスは近づきます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、トマスに確かめさせます。そしてトマスは言います。「わたしの主、わたしの神よ」と。これは、人間の常識を超えた世界に開眼した瞬間の叫びでした。そして、復活の力強さをも実感したトマスの信仰の叫びでもあったのです。

子どもたちの育ちの力も、人の想定外のものを感じるとき、それは子どもたちの何かの叫びではないんでしょうか。

信仰は、人間の常識を超えた世界(神)との出会いです。

 

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