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三位一体:神との交わりを感じていますか、そのことにホッとしていますか

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三位一体(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

三位一体(B年)の説教=マタイ28・16~20

2021年5月30日

この一年半の間、テレビを通して流れてくる情報は、新型コロナに関連するニュースばかりで、うんざりしている方も多いのではないかと思います。こうした現実の中で、少なくとも新聞の情報はどうだろうと、毎朝、開いては、明るく元気が出て、嬉しくなる楽しいニュースはないものかと探している自分がいます。

地元紙記事「ほっとできる親子関係を」から

「ほっとできる親子関係を」という、それこそホッとできそうな見出しを見つけました。新聞の見出しというのは、その記事の内容を一見してわかりやすく、そして、読んでみたくなるように誘導する文言でしょうが、今の時期、親子の温かさの新発見につながってほしいなという思いも込めて読んでみました。(南日本新聞2021年5月23日朝刊)

それは、中学校に入学した娘さんのことで、クラスの輪に溶け込んでいけなくて悩んでいる姿を見たお母さんが、たまらず「373相談室」へ投稿された記事でした。それによりますと、小学校時代は友だちも多く、文武両道で充実していた娘さんでしたが、それだけに、現在とのギャップが大きいとのことです。「わたし自身もどのようにアドバイスをすればよいか悩んでいます。『不登校にはなりたくない』と、強い意志で登校する娘の後ろ姿を心の中で応援し、見守ることしかできない毎日です」と綴っています。

励ましの言葉より、一緒にお茶を飲む時間を

これに対して、鹿児島市善福寺住職の長倉伯博(ながくら・のりひろ)さんがお答えしています。その中で、「学校で頑張りすぎるほど頑張っている娘さんを励ますことも逆効果になりそうです。家庭をほっとする空間にすることをおすすめします」とおっしゃっています。そして、ある方のエッセイを引用しています。「気の弱い子どもだった自分が学校から帰ってくると、母親が料理の手を止めて『一緒にお茶を飲もう』と迎えてくれた。毎日のこの10分くらいの時間があったからこそ、つらいことを乗り越えられた」と。

人間だれでも同じです。住む環境が新しく変わると、人によってその度合いには差が出てくるでしょうが、自信を全くなくしてしまったり、その結果、落ち込んでしまったりすることがあり得ます。中学校は、登校する生徒の住まいの範囲が広くなります。まったくそれまで脈絡のなかった人たちが、自分の周りにどっと押し寄せてくることで、たじろいでしまうことも無くはないでしょう。このような時に、身近にいる家族が信じてあげることでしょう。「お母さんはいつもあなたの味方だよ」って言ってあげるとか、・・人としての心の通い合いが何といっても力になります。人は人を求め、人に向かってより豊かな人(我)になっていきます。関りを築くことです。その向かう相手が神であるとき、最も人間らしくなっていきます。

父と子と聖霊(三位一体)との交わりの中で

きょうは三位一体の主日です。福音書はキリストが弟子たちを全世界に派遣する場面が朗読されます。そこに「父と子と聖霊」という言葉が三つ同時に並んでいます。文字通り「三位一体」は、神の姿です。神は冷たい存在ではないということです。神の交わり合い、与え合いが、わたしたち信仰者の生きる理想になるのです。そのために、神はご自分を人間に開示されました。愛の原点がここにあります。「三位一体」は神の内面生活の奥義なのです。

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今を生きているわたしたち信徒は、普通に「父と子と聖霊のみ名によって」と言いつつ、十字を切ります。まさに、口に出している時、信仰告白をしているのです。では、「三位一体」の意味が分かっているのかといえば、完璧に分かっている人がはたしているでしょうか。

「奥義」は知識のレベルで受け止めるよりも

現代に生きるわたしたちは、得てして、自分にわからないことがあると「疑い」の念が強くなり、それを信じる対象にしようとはしません。いわゆる、知識の対象のレベルで受け止めてしまっているのです。「信じる」世界をのぞこうとするとき、わたしたちは先ず、その宗教の教理から入ることが多いのではないでしょうか。どうしても知識のレベルで突き当たってしまいます。同時に、強烈でなくても、普通に神体験があると、「疑い」が晴れてくるものです。否、問題にしなくてもいいようになってくると言ってもいいのではないでしょうか。

それは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスの言葉・指示を受け止めることができるかどうかです。イエスの言葉に、約束に賭けるのです。であれば、「疑い」の心が残っていても、外(宣教)に向かう時、イエスがわたしたちを導き、教え、疑いを一つずつ晴らしくれるのです。イエスがそのように約束してくれたからです。

イエスのことばに賭けて、モヤが晴れていく

つまり、イエスの言葉に賭けた結果、疑いが晴れていくとき、それは神体験を味わったと言えるのではないでしょうか。素朴な日常生活の中で、それは起きます。そして、ますます信徒(弟子)とされ、さらなる完成へと歩き始めることができるのです。

つまりは、「父と子と聖霊」の交わりの中に、わたしたち一人ひとりを招き入れ、わたしたち洗礼を受けた者が、単に、キリスト教的ヒューマニズムを生きることに目標があるのではなく、もっと深く神との愛の交わりを体現していくこと、そこに、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受ける事実があるということでしょう。

別の言い方をすれば、神と「ほっとする関係(まじわり)」ができていますか、という問いを、今日は自らに発してみてはどうでしょう。きっと、気づかなかったこと、見えなかったものが、モヤが晴れたようにすっきりとし、見えるかも、・・。感謝!

 

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