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復活の主日:イエスは、今なお、この瞬間の「わたし」の傍におられる

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復活の主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9

2022年4月17日

計画から10年「センテラス天文館」が開業

4月9日(土)、鹿児島市の中心街・天文館の、それこそドン真ん中に、「センテラス天文館」が全面開業しました。地権者らで再開発の検討をはじめてから10年。設計変更などの困難を乗り越えてのオープンに「長いようで短かった」と振り返るのは、センテラス天文館の運営会社「千日1・4開発」社長の犬伏和章さん(58歳)です。(南日本新聞2022年4月10日朝刊)

そう思われる背景にあったのが、・・。2011年3月12日、九州新幹線・鹿児島ルートが全線開業したのです。1973年の整備計画決定から38年、2004年3月の新八代以南の部分開業から7年を経て、東京から鹿児島までが1本のレールでつながったのです。同時に、山陽新幹線との相互直通運転も始まって、関西・中国地方と九州が乗り換えなしで結ばれ、日帰り旅行や出張も十分可能になりました。

こうした九州新幹線効果で、大規模開発が続く鹿児島中央駅周辺や郊外の商業施設に押され気味だった中心街だけに、この度のセンテラス天文館の全面開業は、「天文館に再び活気を」と、天文館周辺の商店主からは人流増の期待が寄せられています。

士気高揚には感覚に訴える「しるし」必要

九州経済研究所の新川真吾主席研究員(47歳)は、「天文館は鹿児島中央駅や郊外の商業施設に比べて元気がなかっただけに、勢いを取り戻すきっかけになる」と指摘しています。また、「県民の愛着が深く、県外客にも知名度が高くて潜在力がある」として、他施設と連携したキャンペーンなど継続した仕掛けの必要性を提言しています。

わたしたち人間社会では、どうしても感覚に訴える「しるし」が、変換、再開発、「やる気高揚」のためには必要になってきます。そうでないと、何をやっても徒労感に襲われるからです。事実、意気消沈している時には,自らを鼓舞してくれる励ましサインは大きな希望とやる気を高揚させてくれます。

復活の主日/イースター:マグダラのマリアは墓から石が取りのけてあるのを見た
復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。

今日は主の復活の主日です。元気なころのイエスは、確かに多くの弟子たちにとって希望の光でした。救いへの望みを強烈に感じさせる存在でした。明らかに、幸せを提供してくれる方でした。それゆえに、多くの人びとが魅了されたのでした。人々の目を引き付ける魅力、姿があったのです。

悲しみと絶望のうちに墓に行った婦人たち

それが今、墓に向かう婦人たちの心はどうでしょう。おそらく以前とは違った、悲しみと絶望に覆われていたのではないでしょうか。婦人たちは、もはやそこには、希望に胸を躍らせてイエスのもとに馳せ参じた以前の訪問とは、あまりにも大きな違いがあったのです。

イエスの傷だらけの体を十字架からおろし、墓に葬った婦人たちにとって、イエスの体は鞭によって引き裂かれ、見る人の顔を背けさせてしまうほどの悲しいものだったに違いありません。

イザヤ書では、メシアの姿が描かれています。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ書53章2~3節)

墓はあくまで、死者の過去を示すものだが

婦人たちはこのイエスの姿を見て、そこに希望を見つけることができたのでしょうか。かつて、民衆の前で奇跡をおこなった力強さも感じないし、人々をひきつける燃えるような魅力的言葉も全く聞こえません。その姿は、これまで人々が、弟子たちが熱いまなざしをもって期待していたすべてが否定されるものでした。

墓はあくまでも墓です。それ以上ではありません。というのは、生きるものの動きがまったくないところです。墓が語り、示しているのは死者の過去です。死者を尋ねるのは、死者の過去を思い出し、語るためです。そして永遠の安息を神に願うのです。思い出を語り、祈り、願うだけに終わってしまいます。そこには、新たな希望が湧きおこってくる気配はありません。

墓でイエスの死は死でないことを知らされ

ところが、イエスの死は死ではないということが知らされるのです。「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』」(ルカ24章5~6節)復活の信仰です。

過去の悲しみにつつまれた闇の心を喜びに変え、絶望に満ちた心を希望で満たし、生きる力をわたしたちの心にみなぎらせるのがキリストの復活です。新たな道を示してくれるのです。しかし、人生のやみの深さ、絶望の恐さを否定するのではなく、体験しなければなりませんが、それらの中に必ずや現れてくる希望、生きる力が復活なのです。たとえ、希望に反する状況の中にあってもなお、わたしたちに希望し続ける勇気、元気を与えくれるのが復活の信仰です。それは「わたしの人生のすべては、父なる神の力強い手の中にあるのだ」という信仰が根底にあります。

だから、具体的な日常の生きざまを祈り願うことが、祈りの出発点なのです。町おこしのイベント等にしても、その成功を願い祈ることは理にかなったことでしょう。そして、成功のあかつきには感謝することは忘れてはいけないでしょうね。当然のごとく、・・。

 

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