年間第14主日:イエスを受け入れ、歓迎するために必要なこととは?

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第14主日(B年)の説教=マルコ6・1~6

2018年7月8日

五輪2連覇の羽生選手に国民栄誉賞の授与

「ゆづの笑顔で踏み出せた」「全国から祝福の声」。不屈の精神で勇気と感動を届けてくれたことを讃えて、国民栄誉賞が、フィギュアスケート男子の羽生結弦選手(23歳)に授与されました。(讀賣新聞大阪本社、2018年7月2日夕刊)

彼は、出身地の仙台市のスケートリンクで練習中に東日本大震災に遭い、被災者支援に熱心に取り組みながら、フィギュアスケート男子で、オリンピック2大会連続の金メダル獲得の偉業を成し遂げたのでした。復興庁からも特別感謝状が贈られました。感謝状を受け取った羽生選手は「仙台のスケートリンクで練習中に被災し、たくさんの方々の力添えがなければスケートという選択肢もなかったかもしれない。スケートが復興の力になるよう努力を続け、期待に応えられるように自分を高めていきたい」と話しています。

感謝と称賛の声が地元をはじめ全国から

宮城県気仙沼市の小野寺由紀美さん(49歳)は喜んで言われます。「ゆづ君には何度も勇気づけられた。国民栄誉賞にふさわしい」と。小野寺さんは経営していた創業50年のとんかつ店『勝子』が震災の津波で全壊。仮設商店街を経て、6月29日に新店舗で再出発を果たしました。復興の過程で、勇気を与えてくれたのが羽生選手の五輪連覇の活躍だったといいます。小野寺さんは「ゆづ君の笑顔に背中を押されてあらたな一歩を踏み出せた。負けないように頑張りたい」と話しています。

羽生選手のことば、振る舞い、さらにスケーティングの華麗さが、さわやかさと共に励ましと喜びを、羽生選手の故郷、宮城県民のみならず、多くの日本人に与えてくれたのではないでしょうか。さらに、日本人だけではなく、諸外国の人々も同じような感動を受けたのだと思います。

イエスは故郷で受け入れられなかった!

一方で、今日の福音に紹介されている内容は、イエスさまがご自分の故郷で受け入れられないという話です。イエスさまの言動は、当時の人びとにとって喜び、慰め、癒しのメッセージであったのです。確かに、多くの人びとは励ましを受け、生きる喜びとともに前向きの心を抱かせるに足る内容の出会いでした。現に、「聞き入る多くの人々は驚いた」のです。

年間第14主日:この人は、大工ではないか。人々はイエスにつまずいた。
年間第14主日(B年)の聖書=マルコ6・1~6 〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。

その驚きの理由は「このような力ある業さえ行う知恵をもっているとは」ということです。イエスさまは大工の息子で、兄弟姉妹も自分たちと一緒に生活しているではないか、といって感動するのではなく、つまずくのです。それもそのはず。人々の前に、いきなりすい星のごとくあらわれ、ある種の衝撃を人々に与えてしまったのです。

イエスの出自を知っていた人々は躓いた

その上、イエスさまは、普通の人とは異なる、何かを感じさせるものを持っていらっしゃったのです。自分たちの指導者である人たちには感じることができない自信と権威が、イエスさまの言葉や態度にあらわれていたのです。人々は、イエスさまの、うちからほとばしり出る不思議な力強さに圧倒されながらも、魅かれていきました。それらは、民衆の理解をはるかに超えたことばであり、振る舞いであったといえます。そこにイエスさまと民衆のすれ違いが生じる源がありました。そして「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族の間、またその家においてだけである」と、イエスさまに言わせてしまうほどの隔たりになっていったのです。

イエス理解を妨げたのは安定志向の先入観

多くの人々にとって、社会通念、人間社会で養われてきた先入観が、イエスさま理解を妨げてしまったのでした。したがって、イエスさまの真の姿に出会うどころか、ゆがんだ結論に至ってしまったのです。現在のわたしたちもそうかもしれませんが、今の安定した生活を優先してしまいがちです。日常性が揺さぶられてしまう危険性を何かに感じると、それに不安を感じ、嫌気がさしてくる場合が多々あります。イエスさま時代の人々も同じだったのかなと。

常識の重圧を跳ね返して、イエスに近づく

しかし、イエスさまが持っていた「異質」なものを突き詰めていけば、そこに心を開いていけば、ベールに包まれたイエスさまの真の姿に触れることができたのに、と今のわたしたちは考えることができます。でも、渦中の人になっているときは、そのようなゆとりを持つことができないのも事実です。12使徒も、人としての常識に押しつぶされながらもそれをはねかえし、真のイエスさまにたどりつきました。寄り道をしながらも導かれていったのです。なぜって、イエスさまへの渇望があったからです。

先の羽生選手の地元の人からの大歓迎は、羽生選手と共有できる何かを感じ、それが実現したことが大きいのではないかという気がします。本当は、イエスさまも地元の人々に受け入れられたはずなのに、イエスさまとの心の共有ができなかったのです。それは、何なのでしょうか。そして、今の「わたし」にとって何でしょうか。

イエスさまを喜んで受け入れ、歓迎するために、・・。

 

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