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四旬節第3主日:イエスが教える生の源、神への愛に燃えているか自問を

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

四旬節第3主日(B年)の聖書=ヨハネ2・13~25

2018年3月4日

教会で行う「バザー」に対する賛否両論から

数年前のお話です。ある日、遠方にお住いのある信者さんからお電話をいただきました。「神父さんは、教会で毎年のように開催されるバザーについてどうお考えですか」というものでした。

地域に開かれた教会として宣教の絶好の機会

その方のご意見をうかがいますと、小教区教会が、地域に開かれた教会として存在するためには、バザーの時だけでなく、普段の生活の中で見せていくことではないかということのようでした。つまり、地域の方々が気さくに教会境内に入れるのは、バザーなどの時しかないとおっしゃる信徒の方々がいきり立っているというのです。バザーは宣教の絶好の機会だというのです。したがって、バザーに対する熱の入れようたるや、すさまじいものがあるといいます。

聖堂の中まで使っての販売行為は許されない

さらに、教会という場所を、それこそ商売の場所にしていいものかどうか、ずっと疑問に思っていたというのです。しかも、聖堂の中も使い、販売しているさまを見て、まさに今日の福音にあるように「商売の家にしてはならない」ということです、とその方は言われます。

エルサレムの神殿には色々な区画があった

エルサレムの神殿は、聖所を中心にして祭司の庭、婦人たちの庭、異邦人の広場、回廊などいろいろな区画に分かれていたようです。そして、過ぎ越しの祭りが近づくにつれ、地方から訪れる人々で広場はいっぱいになっていきます。その人々の中に、ひともうけをたくらむ人たちも含まれてきます。

いけにえのために捧げられる牛、羊、鳩を売る人々や、両替を商売とする人々が、神殿の中に当然な顔をして大胆に出入りするようになっていました。さらに悪いことは広がります。祭司までもが私腹を肥やすためにこの商人たちとつながっていくのです。「金と富」への欲望が神殿の持つ宗教性、信仰の世界を壊していきます。逆の言い方をしますと、「宗教・信仰」という崇高な衣の下に、金銭に目がくらんだ別の衣が見え隠れしているのです。

イエスの怒りの本当の理由はどこにあるのか

お金は確かに必要です。それ故に、もっともらしい口実をもうけて、自分がやっていることを正当化していこうとします。人間だれしもこのような傾きがあるのではないでしょうか。特に、宗教的ないのちの腐敗は、油断すると、このような身近な関心事から始まります。お金があれば人々の役に立てることもできます。また、多くの方に喜ばれる事業を起こすことだって可能になります。

金銭の虜になって堕落することを戒めている

ところが、個人的にも、共同体としても、よくよく注意深く行動しないと、信仰者の落とし穴となりかねません。つまり、「お金の力」に酔ってしまうのです。人の役に立つことができた満足感、充実感に引っ張られる(動機)のではなく、引きずられてしまうのです。そうして、金銭の魔力のとりこになってしまうと、信仰者として、人として堕落に落ち込んでいきます。

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イエスさまの、今日の怒りは、当時の神殿が宗教的な生命を失っていることに対するものでした。イエスさまの立場からしますと、神の思いを大事にするあまりの言動であり、当時の人々に対する大胆な挑戦でもありました。イエスさまはこの思いを無視することができないのです。イエスさまの生きる力は、金ではなく、神への愛です、と訴えておられるのです。

今に生きているわたしたちの身近なところにも、「聖堂の本命を汚す」ような同じ現象が見られるのではないですか。個人的には必要なことで、目立つことではないと思われることかもしれませんが、お互いが聖堂内で交わすおしゃべりです。これだって、「祈り」の環境を壊すことになりませんか。この姿を見た未受洗者の方は何と思われるのでしょうか。子どもたちは何を感じるのでしょう。

聖堂は感謝と賛美の祈りを捧げるところ

聖堂が持つ姿は、共同体が一堂に会し、みなで感謝と賛美の祈りを捧げる場として機能することでしょう。多くの信者さんが集まって、一つ心で礼拝(ミサ)を捧げている姿そのものが、大きな宣教活動になります。同時に、信仰教育の場でもあります。その後に、互いの交流の場が待っています。そして、礼拝の中でいただいた恵みと力に助けられ、信仰の分かち合いが、日常生活の中で実践されていきます。無意識のうちに、わたしたちはこのように行動しているのです。

イエスさまによって掃き清められた聖堂を保つために、わたしたち一人ひとりが、先ずその汚れを落としていきたいです。そのために、今の「わたし」にできることは、はたして、・・。

「商売の家にしてはならない」ために、「わたし」をじっくりと見つめてみましょう。信仰者として「生きること」それ自体が「宣教する」ことではないでしょうか!

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