「神への道標」
2018年説教の年間テーマ「神への道標」

四旬節第2主日(B年)の説教=マルコ9・2~10

2018年2月25日

四旬節は「回心する」ことを求め、勧めている

わたしたちは死に対するキリストの勝利、復活祭に向かう道のりを歩み始めました。これが四旬節です。現代に生きるわたしたちに、この四旬節は「回心する」ことを求め、勧めています。

教皇フランシスコは、本年の「四旬節メッセージ」において、自分が偽預言者に惑わされて、冷たく、利己的で憎しみにあふれた心に陥っていないか識別するべきだと呼びかけています。(カトリック新聞2018年2月18日)

「どれほど多くの神の子が、一時的な楽しみを幸福と取り違え、そのとりこになっていることでしょう。・・金銭という幻想に夢中になりながら生活していることでしょう。その幻想は実際、人々を利益やわずかなもうけの奴隷にするだけです。自分自身に満足していると思いながらも、孤独に支配されている人がどれほど多いことでしょう」と記しています。

人は時代に影響されるものではあるが・・・

人の世界では、時代は違っても、場所が違っても、その時々の魅力あるものは存在します。後の世になって、「こんなことが魅力だったの」と言われるようなものでも、その時代の人にとっては惹きつけられたものなのです。そして、いつの時代も、ものの魅力のポイントは相対的で、時の流れとともに移り行くものです。技術の発展、社会、自然界の変化に伴っていくのでしょう。人の関心事が変化していきます。こうして、社会の常識にも違いが出てきます。その時代の特徴が浮き彫りにされてきます。これが「流行」という波に乗って「ブーム」を起こします。さらに魅力が増大していくのでしょう。

多くの人が「ものの虜」になった経験があるはず

わたしたちは、いつもその時代の中で生活しています。その中の一人として、物の虜になり得ます。教皇フランシスコが言われるように、「取り違え」が起こるのです。それに気づかないことが多々あります。気づいたときは大変なことになっていることだってあります。多くの方が経験なさっているのではないでしょうか。

それでもイエスが沈黙を守る、その理由は?

わたしたちがそのような状態に陥ったとしても、イエスさまは何もおっしゃいません。ただひたすらに「沈黙」を貫かれます。この姿の中に何を見るのか。わたしたちは気づきたいと思います。一つは、主は、ご自分のもとにわたしたちが戻るのを待っておられるということ。一つは、この待つことを通して、主は、ご自分のゆるす意志を表しておられるのではないか、と。

このイエスさまのお姿は、その弟子たちと接せられるときにも発揮されています。特に気になる弟子が、わたしにとっては初代教皇を任されたペトロです。ペトロは、名もない漁師あがりのごつごつした熱血男児であり、短気なうえに、せっかちでうぬぼれが強く、いつもぼろを出していたので、幾度か主キリストに叱られ、いましめられながら、謙遜に自分の短所を直し、その代り人一倍キリストに対する信仰と愛を身をもって示したのです。(「教会の聖人たち」池田敏雄著)

イエスの眼差し、ペトロの涙に注目したい

特に印象深いできごとがあります。十字架への道行きの途中のことです。「別の男が言い立てた『確かに、この男も、あの男と一緒にいた。この男もガリラヤ人だから』。しかし、ペトロは言った『違う、言っていることが分からない。』彼がまだ言い終わらないうちに、鶏が鳴いた。その時、主は振り向いて、ペトロを見つめられた。‥ペトロは外に出て激しく泣いた。」(ルカ22章59節~62節)

この時のイエスさまの眼差しは何を語っているのでしょうか。また、ペトロの涙は何を語っているのでしょう。言葉に発しない二人の対話が成り立っているのではないかと思うのです。ペトロの真心からの痛悔を受け入れたイエスさまの眼差しなのでしょうか。

今日のご「変容」のできごとも、ことばには出てこなくても、見せる、示すことによって弟子たちと対話をし、養成なさっておられることを、うかがい知ることができるようです。ペトロは何をどうふるまったらよいかわからず、慌ててしまっています。

ペトロでさえ、メシア観を取り違えていた

最初からイエスさまと行動を共にしていたペトロにさえも、変容のできごとは人間の思いをはるかに超えたものでした。自分が感じて期待しているメシアと、今、眼前で展開された純白のイエスさまの姿とは、あまりにも開きがありすぎます。その現実に圧倒されたペトロはうろたえたのでしょう。ペトロは、自分が思っているメシアとは真逆のイエスさまの姿を、しっかりと見るように促されています。イエスさまとしっかり対話ができたものと、わたしには思えます。

こうして、ペトロや弟子たちが「取り違えて」いたメシア観が、本来の姿へと導かれていきます。わたしたちもこだわりのあまり、何かのとりこになっているとすれば、本来の姿へと呼び戻されたいです。それも、人間の思いを超えたものへと思いを馳せることができれば、・・。そこに神との出会い(信仰)が。