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四旬節第2主日:主の変容は、今の「わたし」を支え、励ます出来事である

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

四旬節第2主日(A年)の説教=マタイ17・1~9

2020年3月8日

わたしたち日本の国が抱えている社会上の問題は、たくさんあるでしょうが、中でも気になるのが「少子高齢」社会になっているということです。それにつれて、全体の人口減少問題も大きなことです。特に地方の人口過疎地域では、町自体が消滅していくのです。当然のことながら、仕事の減少、生活面における支援サービスの低下・廃止など、負の連鎖が止まりません。

何をどのように、どんな目的で実践するのか

このような影響を受けての施策でしょうか、「AI活用」の取り組みが考えられています。(讀賣新聞大阪本社、2020年3月2日朝刊)

兵庫県姫路市では、市民の過去の特定健診の結果などをAIが学習し、健康対策を効果的に実施するための基礎データとする実証事業を行っています。そのきっかけになったのは、市民の特定健診の結果で、糖尿病の診断の目安となる「HbA1c」(ヘモグロビン・エーワン―シー)の数値がよくないことに危機感を抱いたことでした。市民の健康が脅かされるだけでなく、医療や介護の費用の増大につながる可能性が出てくることでもあるからです。

姫路市情報政策室の原秀樹主幹は、「(状況の改善に向け)AIの力を借りることで糸口をつかめないかと考えた」と語ります。具体的には、過去の特定健診の結果や世帯情報といってデータを取り込み、糖尿病を発症したケースなどをAIが学習。糖尿病の発症リスクなどをスコア(数値)で表示するというものです。原氏は「結果を検証し、市民の健康増進や健康寿命延伸につなげたい」と話しています。実用化されると、リスクの高い地域には重点的に食生活の改善を促すなど、きめ細やかな健康対策を展開することも可能になります。

わたしたちは、その人生を生きる時、何を、どのように、どんな目的をもって実践するのか、その手立てを考え、それを実行に移します。ことがうまく運べば満足しますし、また、失敗することもあります。また、たとえ成功しても、そのような生き方そのものに空しさを感じてしまうこともあります。わたしたちの人生は確かに「自分のもの」ですが、それに「空しさ」を感じるとすれば、「自分のもの」ということ自体が、人生に不安や空しさを覚える源となってしまいます。

アブラハムは主の言葉に従って自分を委ねた

そこで、今日の聖書を見てみましょう。アブラハムは「父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」との主の言葉にしたがって旅立ちます。これにより、アブラハムは「呼び出されて、与えられた」道を歩んだ人であることが示されているといえます。

これによりアブラハムの人生はその後、主の導きと計画のもとに展開されていきます。そして、アブラハムが主の導きに自らを委ねることができたのは、語りかけてきた声が、「まがいものではない」主の声であるということを信じていたからでしょう。「信じられる」確信があったからでしょう。

四旬節第2主日:イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
四旬節第2主日(A年)の聖書=マタイ17・1~9 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。

福音書に目を転じてみましょう。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。ペトロたちを覆った雲の中からの声は、ペトロにとって信じるに値する声だったのです。それにより、同時に「与えられた」道が示される声でもありました。少なくともペトロにとって、「主の変容」は天からの至福であったのです。この理解は間違ってはいないでしょう。つまり、苦しみや悲しみのない、嬉しさ、楽しさいっぱいの幸せ、輝かしい人生は、誰もが願い求めているものです。その瞬間をペトロは味わっていたのです。がしかし、現実に引き戻されます。

イエスと共に生きようとするわたしなのか

天上からの声は、ペトロや他の弟子たちの甘さをうちのめします。「これに聞け」といわれるのです。つまり、弟子たちは光り輝く栄光も称賛も失くし、孤独になっていくイエスから学ばなければいけなくなったのです。それは、十字架の道に進んで行くイエスに学びなさいという天の声だったのです。人間的にみれば、あわれな、敗北者の姿にしか見えないイエスの道のりなのです。しかし、「呼び出され、与えられた」道、それは、わたしたちに望まれる神の思いがこめられた「道」なのです。

このことを、今に生きるわたしたちは、イエスが歩まれ、見せてくださった証しによって励まされています。それでも、わたしたちにとっては、越えがたい道のりであることに変わりはありません。人間の思いが、どうしても優先してしまうのです。これが、今のわたしたちにとっては現実であるといえます。

今日、共に見つめてみたいこと、それは「イエスとともに生きようとする『わたし』」なのかどうかということです。神であるにもかかわらず、そのことにこだわらない人生を生きられたイエスに、自分の人生を合わせることができているでしょうか。「自分のもの」でありながら、神から「呼び出され、与えられた」人生を感じ、そのことを生き続けるところに、真のいのちの輝き(復活)が生まれる、とイエスはその生き方の中で示してくれています。この生き方を自分の中に感じるその時、「自分のもの」と「呼び出され、与えられた」道とが重なり合うのでしょう。

主の変容は、わたしたちを、今の日常を生き抜くように励ます出来事であるのです。

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