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四旬節第3主日:人の素晴らしさは、他者との出会いによって磨かれ輝く

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

四旬節第3主日(A年)の説教=ヨハネ4・5~42

2020年3月15日

2019年1月、千葉県野田市で、長女の小学4年栗原心愛さん(当時10歳)を虐待して死亡させたとして、傷害致死罪などに問われた父親・勇一郎被告(42歳)の裁判員裁判第10回公判が9日、千葉地裁であり、検察側は「拷問ともいえる壮絶な虐待だった」として懲役18年を求刑しました。(讀賣新聞大阪本社、2020年3月10日朝刊)

子育てには誰しもプラス思考で関わりたい

子育て奮闘中のご家庭にあって、子どもの育ちに関しては、親御さんであればみな、大いなる関心があることでしょう。それも、絶えずプラス思考でかかわっていたいものです。子育てに関する情報が新聞等に掲載される中で、最近、気になり始めたことがあります。それはシングルマザーに関する情報です。何も、離婚だけがその理由ではないでしょうが、こうしたひとり親の子育てに関する温かな取り組みが紹介されています。(同上紙面)

「『共同養育』広がる意識」という見出しが目に付きます。離婚後、一緒に暮らしていない親子が定期的に接する「面会交流」への関心が高まってきたといいます。子どもの健やかな成長を助けるといった効用があり、支援の動きが広がっています。離婚後も両親が子育てに関わる「共同養育」の第一歩といえます。

離婚後も両親が関わる「共同養育」の動き

別居中や離婚後の子育てに悩む人への助言や、面会交流支援を行う一般社団法人「りむすび」(東京)が、2月上旬、東京都内の飲食店で、離婚した親たちの交流会を開催しています。離れて暮らす我が子の共同養育をどうすれば実現できるかといった問題や悩みを語り合ったということです。一年半前に離婚した男性会社員(33歳)は「なかなか会えないが、自分も父親として息子の養育に携わりたい」と打ち明けています。当法人の代表のしばはし聡子さんは「離婚しても子どもにとって親は二人。子どもの気持ちを第一に考えることが、子育ての負担減にもつながる」と話しています。

日本では面会交流の取り決めをしないままに親子が離れてしまうケースが多いそうです。したがって、どうすれば子どものための面会交流になるか、あらためて考えて行動することが大切になります。弁護士法人ALG&アソシエーツで離婚問題を担当する弁護士の岡本珠亀子(おかもと すきこ)さんは、「特別なことをするより、普段の生活を感じてもらうことが大切」と話します。

具体策は子ども中心のスケジュールで

まず、面会交流をする日時や場所などは、子どもの体調やスケジュールに合わせることです。「習い事を休ませるなど負担をかけてはいけない」と岡本さんは言われます。あくまでも養育の一環で、子どもを第一に考える姿勢が大切になります。つまり、「自分のためではなく、子どものために面会交流することを忘れないでください」と岡本さんは言います。

面会交流に詳しい大正大教授の青木聡さんは「まずは自分だけではなく、元の配偶者も親であると尊重しあえる新たな関係性を築くことが大切だ」と指摘されます。

生き抜いていくには、人には「人」が必要

大人であっても子どもであっても、わたしたちが「人」として生き抜いていくために、自分以外の「人」を必要とします。人としての肉体的な面、人となりの視点からも、大きく、健やかに成長していくためには、「人」の存在は大きいのです。特に、子どもにとっては、その成長過程において、振る舞い方、言葉使い・表現力等、周りの親、兄弟姉妹、友だちの影響を受けながら豊かになっていきます。

いつ、どこで、誰に出会うかということは、いわば、その人の人生における「財産」ともいえるのではないでしょうか。

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今日の福音書の話は、イエスとサマリアの女との出会いの話になっています。この出会いは、サマリアの女にとっては人生最良の出会いとなったのではないでしょうか。その叙述からも分かるように、彼女がイエスに出会うまでの人生は、いろいろな複雑な人間関係の中で、人と交わってきたことがうかがえます。

「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」。イエスは彼女に要求します。彼女は答えます。「わたしには夫はいません」と。今、一緒に住んでいる男性を「夫」と呼べないのです。何を意味するのでしょうか。彼女の、その場における逃げ口上でもないでしょう。本当にそう思っていたのでしょう。お互いのさびしさをまぎらわすためだけの関係なのでしょうか。打算に裏付けられた関係なんでしょうか。一人で生きていけないつらさから、ささやかな温かさを求めての交わりなのでしょうか。今の彼女にとって、その現状は明るい出会いでないことを自覚していることの表れということができないでしょうか。

サマリアの女はイエスと出会ったことで

彼女の心にあったのは、イエスが預言者であるということの確信があったのでしょう。だからこそ、自らの現状の弁解のためではなく、本音でイエスに相対しています。サマリアの女は、冷えきった自らのこころを見透かされてしまったのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と叫びます。心の中をすべてイエスの前にさらけ出したのでした。

今の親たちが子育てに関心をもち、どんな状況にあっても子どもの養育に関わっていたいということ、それは子どもたちにとって最良の財産となることでしょう。サマリアの女にとって、イエスとの出会いがそうであったように、・・。

サマリアの女は、それによって「自分らしさ」を取り戻すことができたのです。子どもたちは「自分らしさ」を確立していくのです。

わたしたちは人に出会って磨かれ、そして、他者にその光を放つのです。

 

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