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四旬節第2主日:自己環境に注目!その中で「わたし好み」の時、場所とは

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四旬節第2主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

四旬節第2主日(C年)の説教=ルカ9・28b~36

2022年3月13日

わたしたちを取り囲んでいる周りの世界、それは、わたしたちに意識や行動の面で、何らかの作用を及ぼしています。また,わたしたち自身もそのことを承知しています。そして、その外界の状態がどのようなものなのかによって、わたしたちが受ける影響にも違いが生じます。一般的に言えば、よい状態であればよい実りを受け、そうでなければよくない実りを受けることになります。それも、わたしたち自身のあり方にもよりますけど、・・。いわゆる、環境です。もちろん、自然環境の他に社会的,文化的な環境もあります。

マスクの常時着用、電子決済などが招く変化

人と会うのにマスクが欠かせなくなって2年余りが過ぎてしまいました。「同級生の顔をちゃんと覚えているのかしら」と、心配する6年生の児童を持つお母さんの声を人づてに聞いたことがあります。もう一つ。最近は「お釣り」と聞いてその意味がわからない子どもがいるということです。コロナ禍が加速させた結果でしょうか。今後、電子決済がさらに進めば、いつかはこの言葉は死語になってしまわないか気になります。これまた、人間の生活環境の変遷により生まれてくる現象でしょう。こうして言葉も淘汰(?)されていくのでしょうか。

とはいっても、わたしたちが望んでそうなるというのではなく、わたしたちの意志に関係なく事は進んで行きます。そして、わたしたちにとってよりよい姿に変化していくものもあれば、惜しまれつつ消えていくものもあります。そして、さらに、「わたし」好みの時、もの、場所が新たに生まれてき、わたしたちもそれに慣れっこになっていくのです。

ルカによるイエスが祈る時や場所の好みとは

今日の福音書でルカは、「イエス好み」の場所、時を伝えているように思います。タボル山上でのイエスの変容の話です。ルカは、イエスは「祈るために」山に登られたと記しています。そして「祈っておられるうちに」イエスの顔の様子が変わったと描いています。ルカは、何か特別な出来事の前の「祈るイエス」に注目しているのです。

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例えば、イエス受洗時における祈る姿(ルカ3章21節)、また、主の祈りを弟子たちに教える前に、イエスは祈っておられます(ルカ11章1節)。また、十字架に向かう前のオリーブ山で祈るイエス(ルカ22章41節)など、わたしたちも、それぞれの信仰感覚のもとに眺め、黙想してみましょう。

そして、ルカは場所も気になっています。ルカが描くイエスの祈る場所は、寂しいところ、人里離れたところ、山と夜に結び付いています。今でもそうですが、夜とか山、人里離れたところなどは、わたしたちにとって活動の場というよりも休憩、いやしの場、ゆっくりできる場としての印象です。そこには、わたしたちの日常の仕事から、人間関係からの解放感を味わえる環境があります。その場から受ける心と体の影響にはどんなことがあるでしょうか。

同じ場所でも、環境が違えば気持ちは変わる

なぜか、かなり昔のことを思い出してしまいました。1983年頃のことです。わたしはフィリピンのラジオ・ベリタスというカトリックのラジオ放送会社の短波放送日本語課に勤務しておりました。一人何役もこなさなければいけない状況で、アナウンサー兼ディレクター兼エディター等の仕事を楽しんでいました。放送の際は、分厚いガラス越しの向こうに、フィリピン人女性スタッフが協力してくれます。つまり、機械いじりをしてくれるのです。録音したテープで放送を流すので、放送用の吹き込みテープの音量調整、言葉の言い間違いをしたときのやり直し作業、音楽編集等、いわゆる、テープづくりを手伝ってくれます。テッシ-という名の女性でした。小柄で、はにかみ屋さんで、もちろん熱心で正直なカトリック信者でした。

当時日本語課には5人のスタッフがいました。休憩時間のお茶飲みにそのテッシ-を招待したのですが、恥ずかしいといって来ることはありませんでした。しかし、録音が終わってスタジオの中で、ちょっとだけ、ざっくばらんに話す機会を設けることにしていました。

彼女が話した中で、わたしが意外と思ったのが、「日本人はやさしくていい人だ」ということでした。見ていると、なんだか、いつも日本人スタッフにからかわれている(?)ように見えていたので、「そうなのか」と、改めて知らされた感じがしたのです。仕事中はそんな話はできませんので・・。しかし、同じ場所でも、環境が違うと気持ちも違って、話題が展開していきます。

好みの時、場所、過ごし方を意識してみたい

自分の回りの社会の喧騒から離れることは、心も体も現実との関係を断ち、ゆっくりと自分の好きなことに集中できるということでもあるでしょう。それが、イエスの場合は神に祈ることだったのです。その心がいたずらに刺激され、束縛されるようなこともないのですから、神だけに心を向けることが容易にできたわけです。周りの世界が消えて、そこには神だけがいるのです。

この事は、「祈る」ことを通して、目に見えない神に近づくことができるということをわたしたちにお示しになっています。重大な決定をする前に、イエスはいつも祈っておられます。祈ることから光を受け、力を受け、神の愛と力と命をしっかりと理解し、受け止めて生活に取り入れて生きられたのです。そのゴールは十字架でした。

わたしたちも休憩を取ります。どのような取り方をしているでしょう。敢えて環境を変えます。その時の自分は何に集中しているでしょう。ボーッとしていることに集中していますか。それも「有り」でしょうね。

自分好みの時、場所、過ごし方を意識してみること、大事かもしれませんね。

 

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