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四旬節第1主日:人に欲ある限り誘惑はつきもの。その誘惑を克服するには?

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四旬節第主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

四旬節第1主日(C年)の説教=ルカ4・1~13

2022年3月6日

先週の日曜日の福音書は、人間の根源的な弱さ、醜さ等を引き受け、十字架にかけられたイエスの話でした。つまり、人間の弱さ、浅ましさは、自らの力ではどうしようもない、変えるにも変えられないほどの自己満足感を与えてくれる魅力的な「欲」でした。人間のこの「欲」に押しつぶされて、イエスは十字架の刑に処せられたのです。だからこそ、イエスは人間の究極の弱さ、醜さからくる苦しみを、よく理解し、その上、その人間をこよなく愛し続けられています。今もなお‥です。

「信仰する」とは学問や理論ではなく”生きざま”

そうです。「信仰する」とは、何も机上の学問ではなく、理論でも知識でもなく、「きょう」の「今」のわたしの日常の中で展開されていく「生き様」のことなんです。そこで試され、恵まれ、深められていきます。人との触れ合いの中で生活を共有し、分かち合い、思いやり合って人間同士のつながりを大切にしていきます。そして、お互いのために祈り合えるようになった時に、その祈りがイエスのもとに届くのではないでしょうか。

四旬節が始まりました。今日の福音は人生、生きることに密接につながっている「食べ物」、その他の「欲」等が、どこに向けられているのかを冷静に考えてみましょうと、わたしたちを招いています。

今日の福音書では、イエスの誘惑の話が語られています。これまた人間の根本的な、人間存在の一番弱いところを突いている誘惑といえます。元気に、自由に生きていたい、幸せでありたい、誰もが望み、願っていることです。

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また、イエスにとって、メシアとしての挑発も、悪魔から受けていたということができます。悪魔の誘惑のうち二度、「神の子なら・・」と誘われています。神の子なら、石をパンに変え、神殿の屋根から飛び降りても傷を負うことはないのだから実行し、神の子であることを我々に示してみろ、という誘いです。人間的に言えば、明らかな挑発です。

「神の子なら…」という誘惑を度々受けたイエス

同じような挑発は、十字架上でのイエスに向けてもありました。議員たちは「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23章35節)とあざ笑い、兵士たちも「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23章37節)といって侮辱したのです。彼らにしてみると、本当にメシアなら十字架から降りられるはずだし、惨めな十字架の刑に服しているなんて、彼らの目にはメシアの強さが感じられなかったのでしょう。

しかし、神の救いの計画は、十字架から降りるメシアではなく、降りないことによって、すべての人々を罪の束縛から解放することが神の意思だったのです。イエスにとっては、十字架から降りることも、石をパンにすることも容易だったことでしょう。しかし、神の子は、人間の好奇心を満たすことが本来の姿なのではなく、かみの意思に従うことにその本質があるのです。

イエスの原点は神の意志を知る=聖書に聞く

そのためにイエスは、聖書の言葉に聞きます。悪魔の誘惑に対してイエスは、その誘惑を退けるために、聖書の申命記の言葉を引用して答えています。

この事は何を意味しているのでしょうか。イエスが、メシアとして神の意志を知る最良の道、それが聖書に聞くことだったということです。

また、申命記は荒れ野での困難や苦悩を「神による試し」として描いています。ということは、イエスは「誘惑」として悪魔の誘いをうけたのですが、それを神からの「試み、試練」として活用されたのです。

なぜなら、「誘惑」も「試練」も、何かの苦しみを前提としていますが、「苦しみ」の捉え方が違ってきます。「誘惑」だと、その苦しみは神から引き離す力として作用します。しかし、「試練」だと、むしろ神への信仰の告白の機会となっていくことになります。確かに、イエスは悪魔に、人として、メシアとして誘惑されましたが、その苦しみをイエスは「試練」として利用したのです。

「誘惑」を「試練」と捉えることができれば‥‥

つまり、誘惑を受けた際に、どのように対処したらよいのかを、わたしたちに示されたのです。どの職に就いていても、何処においても、わたしたち信仰者は主の福音を宣べ伝える立場にあります。職種によって宣教の重要性に違いがあるということはないのです。すなわち、宣教者としての適性は、「信仰者である」ということだけです。

イエスの歩みの原点は、自分の置かれている地位、役割を思ったとき、そこから導き出されてくる神の意思に向けられているのです。何をするにも、メシアとしてその任にある限り、イエスの思い、心は神の意思に向いたままです。そして、神の意思を知る最良の道、それが聖書に聞くことでした。聖書の言葉を思い出すことだったのです。かつて「荒れ野」でのイスラエルの民の失敗を振り返り、これからの生き方を示しているのが申命記でした。

さて、今のわたしたちにとって、「申命記」にあたる聖書のみ言葉は何があるでしょう。しかも、神の意思に向けられた「わたし」として生きるために。

「わたし」が持っているいろんな「欲」は、自らそれを克服しよとする努力の前に、神の働きかけにちょこっと自らを開き、神の意思に向けられたものという原点に立ち戻れるかです。これが、本来のわたしたち人間の姿です。そうわかっていても、悪魔の力は魅力的だし強いのです。

だから、神の働きかけに気づくことですよね。何度も同じことを繰り返しつつ、・・

 

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