四旬節第1主日(C年)の説教=ルカ4.1~13
2016年2月14日
わたしたちは生きている限り、誰かと接し、数多くのコミュニケーションを体験しながら成長し、温かみのある「人間」になっていきます。その中で感じる男女の違いとしてよく言われるのが、次のようです。
敢えてある方の言葉を引用するゆるしをいただきながら、紹介しますと、「男は察しない、女は説明しない」と、いうことです。これが、完璧に、そして、正確に男女を表現しているかといえば、そうではないでしょう。それでも、言えなくもないかな、と感じるのはわたしだけでしょうか・・・?!
いわゆる、「男性性、女性性」は男女の交わりを通して育っていくのでしょうね。それにつれて、父性愛、母性愛も成長し、豊かになっていきます。それによって、自ずと生き方が違ってくるし、生き様も変化してきます。だからこそ、生きることが楽しいし、付き合っていくことがその人をもっと大きく、深く、温かい心・平和な心をもたらしてくれるようになります。よき親となるために、また、イエスさまの良き宣教師となるために、・・・。
四旬節に入りました。生きていく中で一番大切な一つが「食する」ことです。若い時にどのような食生活を送ったかは、年を重ねていくと、しっかりと体調の変化に影響してきます。考えてみますと、人は食べるためにいろんな苦労を惜しみなく引き受けています。そして、食べることによって、心身ともにより人間らしくなっていきます。

今日の福音では、人が生きるために、その中でも、日常的に無くてはならない「食」「欲」の部分をついて、イエスさまが誘惑をお受けになります。
確かに、食べるだけの人生、それは何とも味気ない、つまらない生き方です。とはいうものの、現実はそれに近い生き方になっていると、言えなくもないのでは。なぜって、健康であることは、よりよく生きるための資本(?)となっているからでしょう。
しかし、悲しいことに、生きるためにいかに努力したからといって、すべてが保証されるわけではないということです。
生活の現実は、人間的に見れば残酷で、非情です。神はアダムを通して、そのように生きるように仰せになりました。それはいまもわたしたちの中で生きているのです。
今日の福音を通して与えられるわたしたちへのメッセージは、一人ひとりの人生の中心にある柱はどのようなものでしょうか、ということでしょう。「いのちのために何を食べようか、何を飲もうか、また体のために何を着ようかなどと心配するな。・・・まず、神の国とその義とを求めなさい」(マタイ6章31節~33節)。
神から出て、神に生かされ、神に戻る人生であるということです。これらがわたしたち一人ひとりの人生の根底にあるかどうかをわたしたちに語り掛けているようです。
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