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四旬節第1主日:本来の「わたし」とはいったい何者か?を思いめぐらす

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四旬節第1主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

四旬節第1主日(B年)の説教=マルコ1・12~15

2021年2月21日

四旬節に犠牲・断食を連想するのは神の導きか

いよいよ四旬節が始まりました。「四旬節」という言葉を耳にすると同時に、犠牲をしなければいけないとか、断食しなければとか、何か今までとは違った、普通ではない生活が求められているかのような錯覚に陥ります。このことはまた、四旬節のメッセージを意識して生活するようにとの神からの「導き」でもあるのでしょうか。

新型コロナウイルスの感染拡大から一年が過ぎてしまいました。それはまた、日本においては、マスク着用が定着してしまった一年でもあります。欧米ではその着用に抵抗する人が多く、わが国とは対照的です。その理由を、文化や歴史的観点に注目している元上智大学の教授で、社会人類学者の三田千代子さんが述べています。(南日本新聞2021年2月15日朝刊)

マスクに関する文献や過去の新聞などを調べると、日本でマスクが普及し始めたのは約100年前だそうです。「スペイン風邪」の流行が契機となっています。その予防を呼びかける大正時代のポスターには「恐るべし『ハヤリカゼ』のバイキン」とか「マスクをかけぬ命知らず!」とかの文言が掲げられています。

我々が欧米人よりマスク着用率が高い理由とは

また、明治から戦後にかけ、都市だけでなく農村まで、全国的にまん延した結核も見逃せないと言われます。「亡国病」と恐れられマスクの着用を促したようだということです。

さらに三田さんは、日本の言語やコミュニケーションの特徴にも注目します。「例えば、発音の仕方を左右する音素(意味を区別するための最小の音の単位)の数。日本語の母音や子音は、西洋の言語よりずっと少ない」と指摘、次のように説明します。「英語などアルファベットを使う言語では『BとV』や『RとL』などの発音を明確に区別しないと誤解される。・・・日本語はそこまで区別しない。『しあわせ』『しやわせ』など各音素が不明確でも理解できてしまう。マスクの中でこもった音を発しても通じるのです」と。

「加えて古来の習俗も背景にあると推測する。平安貴族の女性たちが扇で顔を覆うしぐさ『目は口ほどに物を言う』ということわざ、口を開けずに笑うのが女性のたしなみ・・・。口元を重視しないコミュニケーションの特徴が見て取れる。欧米人が『マスクをすると表情が見えず不気味』と感じるのとは対照的です」と三田さん。

いかに生きるか集中すると「神」にたどり着く

きょうの四旬節第1主日の福音書は、イエスの荒れ野での試みの場面が出てきます。「荒れ野」は、生きているものがその存在をゆるされないほどに厳しい場所です。文字通り「荒れ野」ですから食べるもの、飲むものいっさいがない所です。安らぎなどを得たくても、甘えさせてくれる場所ではないのです。いわゆる、いかに生きるかに集中せざるを得ない場所です。生きることの究極は「神」にたどり着くのです。

四旬節第1主日:「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
四旬節第1主日(B年)の聖書=マルコ1・12~15 そのとき、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。

このような荒れ野にイエスは「送り出された」のです。「試み」といわれるからには、何を体験したのでしょう。イエスにとってこの試みは必要だったのでしょうか。単純にそう思ってしまいます。だって「神の子」であるというのであれば、そもそも悪のほうに向いているわけはないでしょう。どう考えても試みの必要性を感じないのです。

しかし、イエスは人の子でもありました。その誕生を見ればわかります。歴史の中に生まれ、わたしたちと同じ人間性を持ち、感受性を備えているのです。だからこそ、人々が引き付けられる魅力ある方であり、わたしたちが近づきやすいのです、本当は。

心は燃えていても、往々にして空回りのことも

わたしたちと同じように、というのであれば、痛みや苦しみは避けたいと思うのが普通です。どうしてもしなければならないことがあって、それがとても辛いことであれば、願わくはしないで済ませたいのです。イエスもきっと、わたしたちと同じく、避けて通り抜けたいのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22章42節)とイエスが祈られる通りです。

この祈りの後半部分「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」という祈りが、心からできるのは、実は、今日の福音書「荒れ野のこころみ」の体験があったからだと言えるのではないでしょうか。つまり、イエスの「人の子」からくる感受性を鍛える必要があったのです。いばらに満ちたメシアとしての道を歩むために・・・。霊はそのためにイエスを砂漠(荒れ野)に送り出したのでした。

事実、わたしたちの経験上もあることです。心は神に向かって燃えていても、何か空回りしている自分に気づくことってあるのではないでしょうか。あることを決心して実行に移そうとしても、なかなかことが先にすすまない体験も多々あります。気は急(せ)いていても、弱くくじけやすい人間として、どこかでしり込みしているのです。その自分に気づくときに苦しみが始まります。そして鍛錬が始まるのです。よい方向に、神に向かって行こうとしている自分を、苦しみに感じやすい人間性が覆ってしまうのです。

何に気づいて、どのように鍛錬すれば良いのか

コロナ禍の予防対策は、分かっていても辛さが長く続くと負けてしまうことがあります。マスク着用は大事な予防策の一つであるとわかっていても、たたみかけられると窮屈さを覚えてしまいます。

わたしたちは何に気づいて、どう鍛錬すればいいのでしょう。神からのメッセージは?・・思い巡らしています。

わたしたち一人ひとりに、本来の自分らしい「人間」の姿に気づきなさい、目覚めなさい、・・といわれているようで。

 

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