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四旬節第1主日:わたしは、神に向かって生きているかいないか 確かめたい

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四旬節第1主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

四旬節第1主日(A年)の説教=マタイ4・1~11

2023年2月26日

いよいよ四旬節です。典礼季節として節目を迎えました。今日の福音を黙想していると、かつて幼稚園で出会ったある子どものことを思い出しました。

表情が乏しかった幼児の変化に期待が高まり

三歳の頃のその子は、おしゃべりができません。何かの障害があるお子さんでした。自己表現ができないからなのか、外見は表情が乏しく、どこかさびしそうに見える子どもでした。それが、時が経つにつれて、少しずつではありますが変化していきます。当然と言えばそうなんですが、年長さんになると、お話ができないのはこれまでと同じですが、こちらの言うことについては、よくわかっているようで、だからこそ時間がかかってもその通りの反応を示してくれるのです。少しずつながら、喜怒哀楽を理解してきていることを見せてくれました。

そうするとどうでしょう。顔にも表情が出てくるんですね。嫌な時には嫌な顔をし、嬉しい時には嬉しい表情が見て取れます。そして、やわらいだ明るい顔になってきたのです。この数年間で、その子はその子なりに「学習」を重ね、しっかりと何かを会得し、表現できるまでになっていったのです。一年一年の節目を迎え、その度に生活している環境も変わります(進級)。出会う友人関係も変わります。その変遷の中で、「そのうちに、きっとお話だってできるようになっていく」と大きな望みを、わたしに抱かせる程に変わっていきました。はたして今はどうしているでしょう。

節目を大事にする人は、その都度振り返りも

何かの「節目」を大事にする日本人。大げさな言い方になるかもしれませんが、その民族性というのか、わたしなりに感じていることがあります。「節目を大事にする」ということは、その人が、やり直しが必要なんだと感じている証になっているんだ、と。だから、振り返りをすることを大事にし、少なくとも、他者に迷惑をかけない人間になろう、と目指すのではないか。それを押し進めると、「忖度する」ことの大切さにつながることになりはしないでしょうか。このように感じています。こうして、日本人のおくゆかしい振る舞い方が身についてくるのでしょう。「子ども期」には、その影響を周りの大人、親から受けます。

それが、他者とのかかわりの中では、日本人の「おもてなし」として発揮されているのではないかと思っております。

四旬節中、私たちは何を勧められているのか

カトリック教会には典礼季節があります。その一つ、四旬節に入りました。先ずは、この季節に入って信仰者として何を思うでしょう。何を感じる時なんでしょうか。

四旬節第1主日:人はパンだけではなく、神の言葉によって生きている
四旬節第1主日(A年)の聖書=マタイ4・1~11 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

一般的にいっても、何かの節目、例えば、誕生日、結婚記念日、成人式を迎えた日等、何かを思い、何かしたいことがあれば、それをするために動かないでしょうか。少なくとも何かの決意をするのではないかと勝手に想像しています。とはいっても人は、日常、時をいつものように過ごし、仕事も普段と何ら変わることなく切り回していくのでしょうが、だからこそ、マンネリ化防止のために、新たな何かを注入したくて動き出す人もいるのではないか・・・と。

教会は、この40日間、何をわたしたちに勧め、どのように促しているのでしょうか。そして、わたしたちはこの「時」を如何に過ごせばいいのでしょう。今日のみ言葉で示されているのは、人間の身勝手さ、それと、キリストの忠実さではないでしょうか。要するに、人間は神を大切にできていないのです。それに比べると、イエスは神を大切に思い、神に忠実を貫いたのです。はたして「わたし」はどちらに属する存在でしょうか。

出エジプトの時代、民はモーゼに愚痴った

つまり、思い通りに日々が過ごせない時、すぐに、そのことに不平を言ってしまい、つぶやきが始まるのです。そのつぶやきも、皮肉を込めた愚痴の「つぶやき」になりがちです。ユダヤ人はエジプト脱出の際、荒れ野での生活を体験します。自分たちの生活の厳しさに対し彼らはつぶやいたのです。「民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか』」と。(出エジプト17章3節) また他の箇所にも「モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」とあります。(同上14章11節~12節)

神を信じること=神に甘えること、に繋がる

現代のわたしたちにしてみても、人生のゆきづまりの中にあるときは、人間的な慰めと同時に他者からの支えも全く期待できない錯覚に陥ります。はっきり言って、それは何かにしがみつきたいという甘えの裏返しと言えませんか。そのことを素直に表に出せないでいるのです。誰にでも「甘え」の感覚はあるのに。最近は甘え方を知らない人が多いのではないかとさえ感じます。この感覚が「信じる」感覚につながると思うのです。神を信じることは神に甘えることではないでしょうか。どう思われますか。

デジタル化が進み、何もかもが便利に速くなっていくと、人間の「情緒」が育つ床(とこ)がなかなか育たないのではないかと思われます。人は心身の程よいバランスがあって、品のある人となりが醸成されるのではないでしょうか。

四旬節という節目は、今に生きるわたしたちに、どのような生き方を指し示しているのでしょうか。自分の身勝手さは黙っていても表に出てきます。一人ひとりの心の奥に眠っている「忠実・従順」はどうなっているのでしょう。必ずあります。それに気づきましょう。

今年の四旬節は、各自、「これこれ」に視点を当てて見つめ続けてみようと決意し、そして、動いてみましょう。

「わたし」は、神に向かって生きているかいないか、神に生きているか、背を向けているか、どっち。

 

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