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四旬節第1主日:イエスは神であり人間のモデル、目指すべき存在者です

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四旬節第1主日(B年)の説教=マルコ1.12~15

2012年2月26日

主との出会い

「想定外」「予期しない」「信じられない」こと、という体験は、その程度こそ違え、日常に起こりうることであります。いずれをとっても、「わたし」という一個人の中での、想定外、予期しない、信じられない、ことです。つまり、わたしたちの言動はどちらかといいますと、主観的な動機で発生することがほとんどであると言ってもいいのではないでしょうか。

「そんなこと当たり前でしょう」で済ましてしまうところに、実は、大事な人に辿り着かない主観的な障害物が横たわっているといえます。よく耳にすることですが、人は一人では生きていけない、ということです。誰かのお世話になっていながら、そうでないかのような生き方、考え方を通常は持ってしまいます。そして、注目してほしいゆえに自己アピールをするのです。

今日の主日から四旬節が始まります。

今日の福音はとても短い箇所が提示されています。そして、マルコの特徴が出ています。それは「霊はイエスを荒れ野に追いやった」というくだりです。ほかの福音ではイエスさま自らが、悪魔の「誘惑」を受けられるために荒れ野に行った、とありますが、マルコでは「追いやられた」のです。

ここで「誘惑」と訳されているもとのことばは、「試練」の意味にもなります。「誘惑」は神からその人を引き離すために仕掛けられるもので、その仕掛けに負けないで神とのつながりを保ったときに「試練」となります。イエスさまは、神とのつながりを一層緊密になさいました。それを示すことばが「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言です。

しかし、イエスさまに荒れ野での「試み」が必要であったのかと思ってしまいます。イエスさまが神性だけの存在であればまったく必要なかったといえます。でも、わたしたちと同じ人としての感受性を持ち、人としての喜び悲しみ、痛みや苦しみを感じることのできるお方であったのです。

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つまり、できることならば苦しいこと、辛いことは避けて通りたいという心と態度をとりたくなる存在者であったということです。それでも、荒れ野での試みには屈することはなかったのです。そういう意味では、わたしたち人間のモデルであり、目指すべき存在者であるといえます。

この中で大事なことは、「想定外」でもイエスさまの姿を見失わないことでしょう。大事な方、神との緊密性に思いをはせること、そのように訓練することが言われているような気がします。

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