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四旬節第1主日:イエスに倣って、四旬節は”信仰を鍛える機会”にしたい

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四旬節第1主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第1主日(B年)の聖書=マルコ1・12~15

2024年2月18日

今年も四旬節の時期を迎えました。

勘を取り戻すのに時間がかかる場合とは

誰にでも体験していること、ないしは体験してきたことではないかと思うのですが、長い間あることに関与していないと、感覚が鈍ってくるというか、勘を取り戻すのに時間を要することってありますよね。そのものにもよるのですが、そうあってはいけないなと思うことがあった時、戸惑ってしまいます。こんなはずではなかったと嘆いても後の祭りです。毎日、一生懸命頑張って生活していても、どんなに気を付けていても、忘れた頃に突然訪れる「後の祭り」の状況…できれば無縁でありたいですよね。

でも実際に、忘れたころにやってくるんですよね。

わたし自身が、教会の司牧現場から離れて4年。早いものです。教会でお会いしても存じあげない方が多くなってきたのかなと、つくづく時の流れを感じてしまいます。何でもそうですが、自分がその立場に立ってみないとわかりっこないということは本当のことだと思います。

あなたの本職を尋ねられたら何と答える

みなさんは(会社を定年退職なさったカトリックの信者さんへ)「あなたの本職は何ですか」と聞かれたとき、なんとお答えなさいますか。「カトリックの信者です」とお答えされる方がいらっしゃいますか。「定年退職してぶらぶらしていますよ」とか「専業主婦です」とかのように普通は答えますよね。「カトリックの信者です」という答え方をした人の話を聞いたことはないんですが、・・。

別の言い方をしますと、「あなたは福音宣教をしていますか」という問いに対しては、どのようにお答えなさいますか。「いいえ何にもしていません」とか「う~ン・・・」と言葉を発することができなくなって、詰まってしまいます。本来ですと「カトリックの信者ですからやっていますよ」と答えたいのでしょうが、・・いつもそこまで意識されているのかいないのか、考えてもいないというか、どっちつかずの生き方をしてしまっているのではないか、これが普段の歩みのような気がします。

「本業は宣教すること」と言えるように

でも、ここに「わたしの本業は宣教することです」と答える方がいるのです。いや、そう答えることができるように鍛えていくのです。これがマルコの今日の命題のような気がします。

今日の福音の個所をフランシスコ会訳に探しますと、(マタイ4の1節)「イエスは霊にに導かれ荒れ野に行かれた」とあり、今日のマルコでは「霊はイエスを荒れ野に追いやった」(1の12節)とあります。両者に共通している内容があります。それは、いずれも「霊」が主人公になって行動を起こしているということです。「霊に導かれ」「霊は追いやった」となっています。イエスがヨハネから洗礼を受けたときにイエスの上に降ったあの霊です。

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そもそも荒れ野とは、いのちを寄せ付けない場所です。以下にある通り、かつて、その荒れ野で、イスラエルの民はモーセとアロンに文句を言い始めるのです。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」(出エジプト記16章2~3節参照)

世事の雑音が多く、困難な時代であっても

なにもイエスの時代だけでなく、今だって生きることに大変さを感じ、不平を言いたくなるのは金銭的にも身分的にも、社会的にも貧しさに追いやられている一般民衆です。

けれでも、どうでしょう。今話題になっている自民党議員の「裏金」問題の件では、権力的にも地位としても、金銭的にもなにも生きることにそう不便を感じていない、むしろ豊かな生活をしているように見える「特権階級」の人々が不平を言っているように見えます。おかしな時代になりましたね。それとも、日本人気質が貧しくなってきたのでしょうか。

「ありがたく押し頂く心」は、昔も今も変わらず、とても尊いその人のここからの情を、他者に表す言葉であると思っておりますが・・・。最近はそれが特権であるかのような、つまり、その心を相手方に要求する権利があるかのような錯覚を覚えてしまいます。

あの「裏金」に関係している人への受け答えを聞いていますと、子どもの教育を考える時、最悪のモデルを子どもたちに紹介してしまっているように見えてなりません。子どもが、質問の内容となんの関係もない、頓珍漢な答え方をすると、大人は、親は、教師はその子に対して何というのでしょうか・・。「まともに答えなさい。ふざけるな」とか「答えになってない」とか、他の罵声を浴びせるのでしょうか。国会中継は、教育上最低の番組になっているような気がします。いいかげんな答え方をしてさえいれば、時とともに不問に付されていつの間にか消えてしまうからです。今までがそうでした、いつも。被害を受けて終わるのが、国民です。今年の確定申告に行った人の中に、そのような人がインタビューに答えていました。

「キリストの声」は皆にかけられている

とはいっても、誰にでも「キリストの声」はかけられています。他の雑音が大きすぎて、キリストの声そのものが、その人の中で一時的にかき消されているだけの話です。キリストの声は誰の心にも歴然と届いて生きています。耳に垢がたまっているだけなのでしょうか?・・。それがぬぐい払われますように、気づいているわたしたちが、祈りによって助けあっていきましょうよ。

今日の福音は、これから始まるイエス自身の道のりに向かうイエスの意気込みを感じます。霊の導きに身を任せ、人間的な自分を鍛え、ひたすら霊の導きに注目し、従っていく決意が、その行動に現されています。

これらは、大衆の面前に出現するイエスを前にして、お父が計画されたシナリオでした。ですから、人に対するイエスの細やかな配慮、言葉かけ、仕草等、とても人間の側に立った温かさを感じます。イエスはそのように鍛えられたのです。荒れ野はそのようなところでもあります。今のわたしたちにとっての社会と同じではないかと、・・。

マルコによれば、今年の四旬節は「あなたの信仰を鍛える機会としなさい」と訴えているようです。今日の福音のイエスがそうであったように、・・・。その現場はこの社会です。

 

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