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年間第6主日:イエスの癒し、救いは、苦しさの中にこそ発見できる

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年間第6主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第6主日(B年)の聖書=マルコ1・40~45

2024年2月11日

人が生きている限り、良いこともあれば、悪いこともあります。その両者とも、ある意味で人間がつくりだしているものではないでしょうか。中でも、悪いものに限ってはそうだといえるような気がします。ここで、信仰者として言えることがあるからです。それというのも、「原罪」(アダムの罪)を抱えているすべての一人ひとりが、知ってか知らでか、やってしまう出来事には悪意が込められている時、ことがありうるからです。それも、その時代を生きる人によってその中身も変わってきます。

「アダムの罪は本質的には不従順であったとされる。それも、神の掟{おきて}の一つを破って、意識的にかつ故意に神に逆らう不従順である。しかし聖書は、この反逆という外面に表われた行為の背後に、その源として内的な行為のあったことに明白に言及する。すなわち、アダムとエバの不従順は、蛇{へび}の誘いに負けて、『神のように善悪を知るものとなる』こと、つまりもっとも一般的な解釈によれば、神に代わって善悪を決定しようと欲したことに由来する。言いかえれば、自分自身を尺度として自己の運命の唯一の主となって、かって気ままにふるまおうとし、そして創造主に依存することを拒みながら、人間を神に結びつけるきずなを破壊してしまったのである。」(聖書思想辞典「罪について」より)

「罪の結果、人間と神との間には大きな変化が生ずる。良心の呵責{かしゃく}はその一例である。最初神との親しい交わりを楽しんでいたアダムとエバは、厳密な意味での罰を受ける前に、既に『主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる』罪は人間から始まり、過失の責任は人間にある。つまり人間が自分のほうから神に従うことを欲せず、神を避ける。楽園からの追放も、人間のこのような望みを確認するだけである。・・罪は、人間と神とを引き離すだけでなく、人間社会の成員間に分裂をもたらす。この事実は、楽園における最初の男女の間にも既にみられる。罪を犯すやいなや、アダムはさっそく、神から助け手として与えられた自分の『骨の骨、肉の肉』である女を訴えて連帯責任を逃れようとする。『お前は男を求め、彼はお前を支配する』という罰の言葉も彼らの分裂を裏書きしている。この分裂は、引きつづきアダムの子孫にも及ぶ。すなわち、カインは弟アベルを殺害し、つづいて、レメクの野蛮な歌にうたわれている暴力と弱肉強食の掟が支配する時代が出現する。」(聖書思想辞典上述に同じ)

イエス・キリストの十字架の犠牲(奉献)により、この罪の結果から救われた人間であるが、原罪の罪の傷跡はいまだに引きずりながら、喘ぎあえぎであっても一生懸命、神の栄光を、救いの業のすばらしさを、より多くの人に知ってもらおうとして、今を生きているのです。

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その限り、限界の中にも楽しい、癒されたひと時を味わうことはできます。楽しい時だってあるのです。これがまた、神のわたしたちへの望みなのです。苦しいことはなくなりませんし、嫌なことも日常たくさん体験します。今体験している石川県の能登半島地震の被害、被災などは、神が生きていても起こるのです。絶対に、そこには何かのメッセージがあるはずです。また、その時々で苦しさ、辛さの内容も異なります。神はわたしたちを痛めるためだけに災いをもたらすわけがありません。神の意図を汲み取りましょう。それは何ですかね。

今、新たに出てきた問題があります。この度、訪問介護サービスの基本料金が減額されることになったようで、ヘルパーらが懸念を強めています。ただでさえ人手不足なのに、それに加え、経営難で見切りをつける事業所が相次いで出てくるとどうなるか。

鹿児島県内の高齢者は都市部に比べ年金が少なく、施設に入所できない人も多いとみられます。訪問介護はこうした人たちの生活を支えています。「団塊世代が後期高齢者になる2025年まであと一年。国は住み慣れた場所で高齢者を見る、という方針ではないのか」と引き下げの見直しを求めて声を上げているのは、鹿児島県ホームヘルパー協会会長の松下みゆきさん(61歳)です。(南日本新聞2024年2月6日朝刊)でも、行政は人を直視しませんよね。このままだと高齢者の難民化が心配されます。つまり、人手不足に加え、事業所の経営が困難になってくると、見切りをつける事業所も増えてき、高齢者がサービスを受けられない、いわゆる、「介護難民」となる恐れがあるということです。苦しみは絶えません。

いつの時代もまさにそうでした。今日の福音の重い皮膚病の患者さんの病も、当時は不治の伝染病とみられていました。ですから、当時は村や町から追い出され、隔離されていたのです。当然のことながら、社会生活の面からも相手にされず、そのかかわりからも締め出されていました。

今と時代背景も違うし、感覚的にもかなりの違いがあるとはしても、周りの人の冷たさ、人の仕打ちの辛さについては、今と同じようなものがあったのではないかと感じています。いわば、他者から完全に見捨てられた存在になっていたのです。人としての温かさを体験することなど、一度もなかったのです。

その彼が、イエスに声を掛けてみました。するとその返事が返ってきたのです。その時の彼は、人に相手にされた喜びみたいなものを感じ取っていたのではないでしょうか。さらにその上、「よろしい。清くなれ」といったイエスの言葉をうけ、そのすぐ後に、清くされた自分を感じるのです。この時の喜びはいかほどだったでしょうか。人間の仲間入りをさせてもらったのでした。彼はその喜びを爆発させました。

癒された人は、しっかりと自分の弱さもろさ、そして、苦しみを直視していたのです。そして、そこから出てきた叫びが神への祈りが、神との出会いへと招いてくれたのです。

人に相手にされないことほど、さびしいことはありません。体験した人、または今体験している人、いらっしゃるのではないでしょうか。

辛いけど、その寂しさ、苦しさにしっかりと向き合ってみましょう。見続けてみましょう。そこから道が開けますよ。

世界中の一人ひとりは、もっと回心しなさい、・・それが今日のイエスのメッセージでは。

 

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