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年間第6主日:イエスに対する誤解、それは人生の本末転倒への誘導口

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第6主日(A年)の説教=マタイ5・17~37

2020年2月16日

わたしたちの現実世界では、時の流れとともに、さまざまな出来事が起こり、それとともに生活が変化し、より豊かに便利になっていきます。それにつれて、未経験のできごとに遭遇することも増大します。より多くの人との交流ができ、お互いに刺激し合えるようになるからです。そして、一人ひとりの生き方に対する姿勢にも影響が出てきます。つまり、生きる価値観に影響してきます。それにより、日常の動きに、少しずつ変化が出てきます。そして、わたしたちが生きている時代の社会常識が形成されていきます。

「育児休暇」「介護」に関する話題から

「男性育休 競う与野党」「自民 制度改善策作り」「立民 議員が取得実践」。まさに、今、育児休業を取得する男性を増やそうと、与野党が知恵を競い合っているといいます。(讀賣新聞大阪本社、2020年2月12日朝刊)

この問題については、長年、向き合ってきた事案だと思いますが、わたしたちの人間常識になってこなかったのです。わざわざ取り上げないと進展していかない事案で終わっていたのです。正社員の男性が育休制度を利用しなかった理由のトップは、「収入を減らしたくなかったから」で、32%でした。次いで「職場が取得しづらい雰囲気だったから」(25%)でした。厚生労働省の2018年度調査によりますと、育休取得率は女性が82.2%に上るのに対し、男性は6.16%にとどまっています。

そして、少子高齢化社会になっている日本。高齢になった両親の介護に関しては、新聞等により、さまざまなケースの紹介が頻繁になされています。これは、誰にとっても、深刻な目の前の差し迫った課題です。

赤木春恵さんのケアノートが話題に

それらの一つを紹介しますと、女優の赤木春恵さんの長女・野杁(のいり)泉さん(62歳)が「ケアノート」に語っていたことに対する反響が掲載されています。(同上朝刊)

野杁さんは足の悪い赤木さんと同居して生活を支えてきましたが、2015年自宅で転倒し、大腿骨を骨折したのです。野杁さんは「自宅で過ごさせてあげたい。けれど、わたしでは母が安心できる介護ができない」と、悩んだ末の選択が、有料老人ホームへの入居でした。同じような親御さんをお持ちの方々にとって、気持ちの上で重なり合うものがあり、お互いの心を受けとめることができるのではないのでしょうか。「感動した」「赤木さんと野杁さんの胸中を思うと、涙があふれた」と手紙に綴った方もおられます。それは心の葛藤があったうえでの選択であったと。言葉の表現には出てこない共鳴し合う心情があるように思います。

問われていることは何か?と言うと…

「育休」の問題にしても、「介護」の問題にしても、共通して言えることは、人の「尊いいのち」に対するわたしたち一人ひとりの姿勢が問われているということでしょう。表に出てきた現象(策)に見えてこない、人間の秘められた奥深い心情は、必ずしもそのまま露わになることはないということです。葛藤の結果、その時の最善の策を選択しているのです。施設の評価を行う公益財団法人「Uビジョン研究所」(東京)理事長の本間郁子さんは「介護はいくら尽くしても後悔が残る。施設を選択することで自分を責めてはいけない」と強く語っておられます。

年間第6主日:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである
年間第6主日(A年)の聖書=マタイ5・17~37〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕  「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

人のいのちそのものの尊厳は、決して衰えるものではありません。時代が変わろうと、生活がいくら便利になろうと、その価値が落ちるものではないでしょう。しかし、用心しないと、法律、制度(人が作ったもの)が人のいのちに取って代わること、時がよくあるのです。それが当たり前になってしまっていることはないでしょうか。

律法学者たちの義にまさる「義」とは

「あなたがたも聞いている通り……、しかし、わたしはあなた方に言っておく」という言い方が、今日の福音書ではくりかえされます。イエスの山の上での説教です。イエスは、聞く人々に「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」を求めます。「義」とは、神との関係を大事にする姿勢、つまり、モーセの十戒に込められた神の意図していること、神の思いを聞きとり、汲み取って行動することを表しています。

イエスは、当時のすべての人々が、モーセの十戒を知っていることを前提としています。そして、殺人について、姦淫について、誓いについて言及されます。十戒には、「殺すな」とあるだけです。これに、昔の人々は「人を殺したものは裁きを受ける」という解釈を付け加えたというのです。人間的な限定を設けることによって、人は自分の正しさを保つことができるようになるのです。外見的に悪いことをしなければいい、という安易な考え方にイエスは挑戦します。

「いのち」は人の決まり、律法にまさる

「しかし、わたしはあなた方に言っておく」とイエスが言うとき、殺人、姦通の外面よりも、こうした行為の根であるその人の欲望を指摘しているのです。それと対決するように求めているのです。また何時、その思いが形を取って外に表れるかわからないからです。神が大切にされるのは、人の命全体、つまり、人間がともに生きる関係が意図されています。したがって、それは兄弟との和解であり、それは、神との関係の修復と表裏一体なのです。ここに神の思いがあります。

「誓い」は、人間関係が全き信頼の上に成り立っていれば、それは必要ありません。そこでおっしゃりたいのです。イエスはご自分の到来によって、互いの信頼に満ちた人間関係の現実が、今ここに来ていますよ、と。これらは、全く新しい戒めなのです。

人の決まり、律法を重視するあまり、民衆はイエスを誤解しました。人生の本末転倒は、いつの時代にも起こり得る「誤解」から始まるのでしょうか?!

【2月16日】年間第6主日(A年)の聖書はこちら

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