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年間第7主日:自分の限界を知る時、神に向かう素直な自分を見つける

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第7主日(A年)の説教=マタイ5・38~48

2020年2月23日

「国内確認一か月」「観光地逆風いつまで」「『高齢』『持病』に重点」と、大見出し、小見出しが乱れ飛んでいます。(讀賣新聞大阪本社、2020年2月17日朝刊) この度の、新型コロナウイルスに関する報道です。

新型コロナウィルス騒動をめぐる話題から

肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの感染者が国内で相次いで確認されていることを受け、16日はじめて専門家会議が開かれたという報道がなされています。会合では、受診の目安や国内の発生状況について議論されたということです。何か違和感を覚えてしまいました。これまでも、世界を巻き込んだ大変な騒ぎになっているのに、また、予測できた症状があちらこちらで起きているがゆえに、専門家会議はなされてこなかったのか、という一般人としての単純な疑問を覚えたからです。

全国世論調査(14日~16日)を実施した讀賣新聞社では、新型コロナウイルスによる肺炎を巡る日本政府のこれまでの対応を聞いています。それによりますと、「評価しない」が 52%と半数を超え、「評価する」の36%を上回っています。具体的な感染予防についても尋ねています。手洗いやうがいを入念に行ったり、マスクを着用したりしている人は84%。外出を控えたり、人が集まるところに行くのを避けたりしている人も47%と半数近くにのぼっています。

厳然として存在する「限界」に着目したい

わたしたちの世界で起きる出来事は、自然界の環境のあり様に影響されて起きること、例えば、強烈な台風と積雪、それに伴う水害と雪崩、また、地震等、それに、人が引き起こしてしまう出来事があるのではないでしょうか。人が起こしてしまうことに関しては、どうにかして人の手によって防御することはできるのでしょうが、自然界の力による現象を前にしては、人間の能力の範囲をはるかに超えた、抗しようもない大きなエネルギーを感じてしまいます。特に、自然界の力により引き起こされた惨事を前にしては、呆然とするほかにその術を知らないのです。ほどそれほどに、人間は小さな存在者になってしまいます。

確かな小さな存在者であることを、一人ひとりがどれだけ意識し、認識しているのかわかりませんが、その歴史からわかるように、人同士の戦いも後を絶たないのです。個人としても、各国間の関係にしても、そのいさかいの原因になっているのは、各々の「権利」についての無理解と誤解からくる「侵害」にあるのではないでしょうか。

日常を振り返ってみますと、お互いが権利を主張し合うことからくる諍いがあります。権利と権利の張りあいになるからです。それは、わたしたちの心の奥にひそんでいるエゴイズムに関係してはいませんか。その結果は悲惨なものへと移行していきます。他人を平気で傷つけてしまったり、互いの秩序の破壊、挙句の果ては相手を無視してしまうのでは、・・。

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これらすべては、人には「限界」があるということです。その知恵においても施策においても。とはいうものの、言い訳を考えたり、自分よりもさらに劣った者を引き合いに出したりして、自分を慰め励ましているのです。なんとも滑稽なことをしでかしているのでしょうか。

神が「悪人」にも恵みを与える理由は何か

そうすべきではないというのであれば、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」神に向かうしかないのではないでしょうか。ここに、信仰者の、否、人間の心の奥にひそんでいるもう一つの「人間らしさ」があると思うのです。「悪人」「善人」という表現ながら、両者は同列に置かれています。悪人や罪人は、神からの恵みを無視し、自分勝手に生きている人びとです。なのに、神は、いくら無視されようとも、滅びへの道をたどっている彼らが救われるために、惜しまずご自分のひとり子・イエスを十字架に渡されたのです。彼らが気になってしょうがないのです。

「目には目を、歯には歯を」という同害報復法は、復讐することが認められていると受け止めている人がいるとすれば、それは誤りです。これは、無制限の復讐に歯止めをかけるためのものです。被害、損害を受けた以上のつぐないを要求することを禁じるためのものでした。これに対してイエスは、「損害賠償の訴訟を起こさないこと」といわれるのです。

悪人を憎まないことで天の父の心を伝える

さらに、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と付け加えられます。つまり、悪人に逆らうな、手向かってはならないと。直訳すると「反対しない」ということになるそうです。ということは、「悪人と同じ方向を向きなさい」という意味になります。この後に続く「一緒に二ミリオン歩きなさい」「迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃることも、「天の父が、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ことを、イエスはご存知だからです。だから、悪人とともにあること、歩くことは、いずれ、彼らも「天の父」の思いを知ることになるということです。「宣教する」ことの大切さがここにあるのでしょう。

人間にはいろいろな権利があります。その中でももっとも侵すべからざる権利は「生きる権利」ではないでしょうか。イエスはその権利を自ら放棄したのです。生きる権利を放棄し、それにより、わたしたちのいのちを大切にしようとする心、これがイエスの心なのです。

人としての「限界」を知り、それゆえに、人間本来の「神に向かう素直な」自分であることを喜びましょう。いつ、どこでも、神は微笑ながら、「わたし」の一挙手一投足をじっと眺めています。

 

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