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年間第7主日:愛すること=ゆるすこと。イエスはいつも「あなた」の背後に

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年間第7主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第7主日(C年)の聖書=ルカ6・27-38

2022年2月20日

わたしたちは、幼いころは何も意識することも無く、記憶にも残っていない時期を過ごして大きくなってきました。人が生きている限り、このことは繰り返されることでしょう。そして、これは誰にとっても例外のない現実です。

でも、ある時期から記憶に残ってくる、いわゆる、自分の歴史が刻まれていきます。それは、楽しいことばかりではなく、むしろ辛いこと、苦しいこと、にがい体験が、なぜかたくさん記憶に残っているような気がするのです。

だれもが体験する、言葉と行動によるぶつかり合い

はたして、その苦しみ、悩み、辛さはどこから来るのでしょうか。それも、体調の状態、年齢によっても、その中身に違いがあるように思います。若い時には何も感じることも無く過ごしてきたもの、ことが、年を重ねてきますと、何か気になってしまうことってありませんか。心身の健康、病など、思うようにいかないことが続きますと妙に気になってきます。ある程度は年齢も影響があるのでしょうが、どうしても避けられない存在、それが人間だから当然の現象です、と言ってしまえばそれまでです。そして、たしかにそれは大きな現実です。

その上に、誰もが、これまた例外なく(?)体験していることがあります。お互いが言葉と行動による中傷合戦です。互いのエゴイズムがぶつかり合い、欲望がぶつかり合い、互いを傷つけあってその人の人生を破壊していくのです。大なり小なり、いくつになっても、日常の中で繰り返されているのではないでしょうか。

人間は、そのエゴイズム、欲望を求めていくあまり、互いを破壊し、互いを孤独に追いやり、挙句の果てに絶望を与えてしまうのです。その規模が大きいのが戦争です。第二次世界大戦が終わって77年、未だに世界のあちらこちらで戦争は続いています。人間はその歴史から何を学んでいるのでしょうか。何も学んでいないじゃない、と言われても致し方ないですね。いや、それだけ人のエゴ、欲望というものは抑えようもなく強力なものであるともいえます。ここに人間の哀しさがあります。だから、悲惨な事件事故の繰り返しがなされるのでしょうか。

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だからこそ、イエスのきょうのことばは、ぐさりと心に突き刺さるのです。「こと」の始まりは、まず「わたし」乃至は「わたしたち」からであるといえます。つまり、小さな一人、二人から始まるのです。だからこそイエスは言われるのです。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と。イエスの言葉を聞いている一人ひとりにむけられた呼びかけです。

イエスの「黄金律」は一人ひとりに向けられている

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」というイエスの言葉は、なるほど、と納得がいくことかもしれません。まさに、「情けは人の為ならず」という中身に似ているからです。人に情けをかけると、回り回って自分の身に返ってくるの意です。だから人に親切にしなさいという教えと言われます。イエスの言葉はマタイ7章の12節aによると、黄金律と呼ばれています。

きょうの福音書では、イエスは「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と、黄金律の根拠を示しています。したがって、他人に何かしてもらうことを当てにしてその人に良いことをしても、罪びとも同じことをしていることを思えば、そうする「あなた」は罪びとと同じでしかない、とイエスは言われるのです。「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」と。

成長のため欲は大事。だが人の本質は他者への奉仕

人間の「欲」は、人類の発展、成長のためには大事なものです。でも、その虜になってしまっては、思いもよらぬ泥沼にはまり込んでしまうこともあり得ます。つまり、相手のいのちを大事にし、その人の人生を優先していく心があれば、絶望の中にあるかもしれないその人に、いつの日か、希望の光をともす力になっていくということです。

わたしたちの日常、いつもの労働は、それによって誰か、自分も知らない人のためになっているのです。労働、仕事とは、そのようなものでしょう。そこに生きがいを感じ、力を結集させるところに「働く」ことの尊さ、魅力があります。とどのつまり、働くことによって、多くの人のいのちに奉仕しているのです。別の言い方ができるとすれば、わたしたち皆は、その実、一人ひとりが相手のいのちを大事にし、相手を優先する心、愛の心で奉仕しているということになります。

このことを認識しているどうかは別として、人は皆、本質的に他者に奉仕し、その成果の良し悪しによって、自らの生きる力、生き甲斐にしてはいないでしょうか。イエスは、このことを意識し、徹底するようにと呼び掛けているのです。意識していないときには、普通にできているのに、意識すると委縮してしまい、同時に、エゴが顔を出してしまうのです。

そこで大事になってくるのが勇気です、とイエスは言われます。徹底して相手を大事にしようとするとき、それには勇気が必要になってくるということです。個人としてのかかわりにおいてもそうですが、国レベルにおいてもいえます。現実的には、相手のためを考えれば、各国が有している武器を捨てる覚悟がいるからです。特に弱者(国)に対して。このことをイエスは十字架上で示されました。人びとの赦しを祈りながら亡くなっていかれました。

「愛する」こと、それは「ゆるす」ことです。これこそ安心・安全、平和の原点ではないでしょうか。「わたし」の背後には、いつもイエスがいます。

 

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