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四旬節第4主日:救いは力で勝ち取るものではない!神からの恵みである

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四旬節第4主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第4主日(B年)の聖書=ヨハネ3・14~21

2024年3月10日

どうして、そこまで優しくできるのだろう

ひとは生きていく中で、「どうしてそこまで優しいの」というよりも「どうして優しくおられるのですか」といいたくなる人と出会うことがよくあります。人の中には先天的に気にならない人がいるんですね。いわゆる、人とのいさかいを起こしたくない人がいるんですよ。そのような人を見て、逆に怒りたくなる人がいるのも確かです。また、いつも怒ってばかりいる人もいます。なにかというと、怒らなければ気が済まない人なんでしょうね。よく見ると人さまざまですね。だから楽しいのかな。でも、だから闘争も絶えず弱い人はいつも苦しめられています。今が、まさにそんな時なんですかね。ウクライナ侵攻、ガザ地区紛争、その他小さな諍い等、あらこちらで起きています

わたしたちが住んでいるこの地球上に、いろんな人がいるのはとてもいいことですが、そのことが楽しさにつながっていけばいいのに、逆に対立の条件になっているようで、ままなりませんね。いつの時代においてもそうだと思いますが、相手の方に認めてもらいたいのであれば、自分もその人の言い分を受け止めてあげる必要があるのではないでしょうか。いや、自らが先に受け止めてあげる心の広さを示すことができれば最高です。隣人愛の秘訣はここにあると思うからです。そうわかっていてもその時になると忘れてしまっています。身についていないんですよ。

「人にしてもらいたいことは人にしなさい」

聖書の中に次のみ言葉は誰でもが知っていますよね。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7章12節)人が他者にできる最低のルールではないでしょうか。そうです。神がわたしたちに要求なさるのは、何も高級なことではないんです。誰にでもできるごく日常の、何げなくやっていることなんです。

イエス時代のファリサイ派は全くの律法中心

とはいっても、そうすることが、掟みたいに守らなければいけない文字通りの掟としたら、それは別です。というのは、イエスの時代には律法を文字通り実践することが、聖なる神に近づく道であるという信念を持っている人がいました。それゆえに、そのような人に導かれた人たちも同じく、そう信じていたのです。そのグループがファリサイ派でした。彼らは決して悪いことはしていないという自信があります。そのことが、その思い込みが悪いのです。

ファリサイ派のニコデモに教えたこととは

そのファリサイ派の一人にニコデモという人がいました。今日の福音の主人公がそのニコデモになっています。彼は、他のファリサイ派の人々と同じように掟を守らない人は罪びとであると思こんでいたのでしょうか。

彼らにとってそのこと自体(伝承すること)は、とても推薦されることであったに違いありません。「伝承」という時、その事実とその事実に対するその人の思い入れも同時に伝えられていくのではないでしょうか。注意しないと、歪められて伝承が出来上がることがあります。

この伝承とはいっても、あらたに受け継いでいく「遺志」の伝承があります。南大隅町出身の画家で昨年11月に死去された向吉文男さんが地元につくった「ギャラリームコヨシ」で、亡くなって3ヵ月たった今も、作品の完成展示会が続いています。数々の受賞歴があり、パリ留学も経験した向吉さんが「本土最南端の町に、文化の発信拠点をつくりたい」と実家を改修し後世に残した施設。兄の保夫さん(82歳)がその思いをつないでいるのが今や常設展となって「ギャラリームコヨシ」となっています。

向吉さんは出水高校(鹿児島県出水市)教諭時代の1986年、南日本美術展のパリ章を受章。全国の二科展でも活躍されています。「子どもたちの絵や書などを飾る場になれば。地元から新たな才能が出てきてほしい」と2023年4月にギャラリーを開設。しかし同年11月、脳幹出血のため死去しました。突然の訃報に親類も驚いたが、保夫さんは「弟の遺志を次いで、ギャラリーを盛り立てたい」と切り盛りしてきました。会場には100号を超える大作や、桜島など鹿児島の風景を描いた作品が並んでいます。(南日本新聞2024年3月6日朝刊)

いつもですと、地方の小さな町の話だと大きな話題にもなりませんが、それは情報発信者の網にかからないだけで、人々の心を和ましてくれる話、さらには、前に進む大きな力になる話など、他にもいっぱいあるものだと確信しています。だって、そこにも人間が住んでいるんですから、・・。

イスラエルの社会も、「伝承」していくことをとても大事にして生きてきた歴史があります。だからこそだかどうかわかりませんが、キリスト教はいまだに歴然と生きているのだと思います。

言い伝えは、歴史とともにどこか歪められてしまうことも事実のようです。その当時の権力の大小によって強調されてしまう点が異なってくるからです。そのことに熱心な人であればあるだけ、専制的になっていくんですね。イエスの当時のファリサイ派の人々も、悪いことを教えているわけではないでしょうが、小さなたくさんの掟を別個につくり、実践するときがあまりにも利己的過ぎました。

神からの恵みなしには、人間の救いはない

そのニコデモにイエスはどのようにして真の愛の業を教えたのでしょうか。人間どうしても自らの功績を気にします。良いことをしてなんぼの世界に生きています。それだけに、ファリサイ派にとっては、どれだけのいいことをたくさんしたのか、自らのたくさんの功徳をつむことが救いの近道でした。これに対してイエスは言います。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3章3節)

要するに、神からの恵みなしには、わたしたちの救いはないということでしょう。つまりは、天の国は、わたしたち人間の力で勝ち取るものではないということです。それはひたすら神からの恵みなのです。わたしたちは神から愛されているのです。その確信を絶えず思い起こし再確認していくことです。

自力で救いを獲得しようとするときは闇に

つまり、人が自力で救いを獲得しようとするときは闇に向かっている時です。光に背を向けている時です。そうすると、自らの歩み(道)は影となり、先が見えなくなります。見えるように、光に向かって歩みを始めましょう。そうし続けることによってこそ、神の愛がわかってくるのでしょう。すぐにわかるはずもありません。

ニコデモは、その実しっかりと日々光に向かっていたのでしょうか、・・。

 

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