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四旬節第4主日:「親子のかかわり」こそが人と信仰が成長する原動力

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説教の2019年・年間テーマ=「召ばれています、いつも」

四旬節第4主日(C年)の聖書=ルカ15・1~3、11~32

2019年3月31日

「自分(たち)を育ててくれた親のいいつけをよく守り、また、老後にはその面倒を見ること」というのは“孝行”についての国語辞典の解説です。(新明解国語辞典・三省堂)

「孝行息子・娘」は死語になったのか?

最近では「孝行娘・息子」なる言葉を聞くことがなくなりました。言葉自体が死語になってしまったのでしょうか。言葉は「生き物」です。その証拠に、言葉によって自分が傷つく場合もあり、また、人をも傷つけてしまいます。逆に、他人から認めてもらう言葉をいただくと、気分がよくなったり、やる気が出てきたり、元気をいただくことも多々あります。いわゆる、その人の人間性に多大なる影響力を持っているコミュニケーションの媒体です。それだけに力があるのです。

「子育て」の柱になる考え方・言葉とは

今の「子育て」の柱になっている考え方は何かと問われれば、何という言葉が返ってくるのでしょうか。自論ですが、幼稚園児のころまでは、世界中の子どもたちに大きな違いはないのではないかと考えます。子どもの世界が広がり始める時期ですが、打算はないし、駆け引きもなし。そのままの姿を見せてくれます。混じりけのない純白な心と言葉と行動です。

したがって、純白の紙の上に新たに字を書き始める「書初め」に似ています。書く人は子ども自身です。その手助けを両親、周りの大人がします。この関りのあり方が、将来のその子の道のりの出発点になるのではないでしょうか。子どもが幼いころは、子ども自身いつも、何処でも主人公になりたいものです。親、大人に注目されたいのです。これが普通でしょう。自然体だと思います。

教育は、する側される側の間に実るもの

最近の子どもたちは「口答えをする」といって、学校での教育指導が難しくなってきたと悩んでいる現場教師がいるのだそうです。教育現場でよく言われる「指導」とは何でしょうか、と考え込んでしまうことがあります。また、「行き過ぎた教育」なんてことも、よく言われるようになりましたが、教育に行き過ぎがあったらどうなるのでしょうか。

教育する者、教育される者の間に実るのが「教育」なのではないでしょうか。いわゆる「関係・かかわり」が「教育現場」なのです。偉いから「教育する者」、そうでないから「教育される者」とは言えないということです。お互いがわり、っていくのです。

四旬節第4主日:お前のあの弟は生き返ったのだ。祝宴を開くのは当前だ
四旬節第4主日(C年)の聖書=ルカ15・1~3、11~32 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

今日の福音書では「放蕩息子」の話が紹介されています。この息子は何歳だったのでしょうか。ちょっと気になりました。「放蕩」という言葉を聞いただけで、「悪い息子・罪な息子」という印象を抱いてしまいます。いわゆる「孝行息子」とは真逆の姿になるのでしょう。

”放蕩息子”は当時の次男には珍しくない

表面にあらわれている姿を見ると、親不孝者です。きっと何かの打算が働いて、今日のような話になったのでしょう。それも、あまりにも刹那的に思えます。でも、この当時は次男以下の息子たちにとっては普通のことだったといわれます。

旅に出た息子は、自分の無計画さ、未熟さを思い知らされます。周りの人々が自分に関心を示してくれるのは、金があるからです。金銭的な欲望が満たされ、快楽に走って使い果たしてしまうと、他者に相手にされなくなります。いわゆる人との「関係性」が壊されていき、最後は孤立してしまうのです。これは本来の「人間」の生きるありかたではなくなります。衝動的に自分の中から突き上げてくる思いをコントロールすることのなんと難しいことか。わたしたち一人ひとりが日常体験していることでもあります。

どん底に落ちて初めて気づくあるべき姿

人間的に見て、どん底の状態に落ち込んでしまった今、息子はまた、新たな現実にぶち当たります。「豚の食べる蝗豆で、空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人は誰もいなかった」のです。豚は、その当時、飼うことが禁じられていたのです。豚を飼っているとすれば、それは闇の、隠れた仕事ということになります。にもかかわらず、相手にされなかったのです。豚以下の扱われ方といえます。人としての品格、尊厳などあったものではありません。

当時の人々も、自らの生活を立てることで一生懸命だったのでしょう。その「放蕩息子」の世話をするということに思いが至らなかったのが現実だったかもしれません。だから、闇の仕事をしながら生活していたのでしょうか。このような生活環境の中で、息子はやっと自己の限界と弱さと甘さに気づき始めます。

あるべき姿とは、関わりを修復すること

「我に返って」自分の今の姿と、あるべき姿を知ることになるのです。つまり、父の存在とその奥深さに気づいていくのです。自分は父の愛情に守られ、なに不自由なく生きてきたのです。あるべき姿に戻ろうと決意します。「あるべき姿」とは、単に父のもとに戻ることだけではなく、父との関係、親子関係を確かなものにするということです。実は、これが最高の親孝行なのです。

幼い頃に培ってきた親子のかかわり、それは形を変え、中身を濃くしながら成長していきます。「放蕩息子」から「孝行息子」になる原点は、やはり、親子のかかわりにあります。それも幼い時の親子・家族関係といえないでしょうか。

 

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