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四旬節第4主日:愛されていることを実感できたとき、人間は充実する

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四旬節第4主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

四旬節第4主日(B年)の説教=ヨハネ3・14~21

神への道は、自らが安心安全を会得するその先に開ける

2021年3月14日

大震災から10年、インフラ整備には一定のめど

日本国内では、東日本大震災から10年が経ち、インフラ整備には一定のめどがついたといわれます。でも、未だに4万人の避難生活を余儀なくされている方々がいるのも事実です。そして、被災地では震災が起きた3月11日午後2時46分に合わせて犠牲者を悼みます。

他方、世界に目を向けると、これまた各地でいろいろと苛酷な事件、悲しい出来事が起きています。中には何も修復されることなく、破壊された街、住居等がそのまま放置された地域もあるようです。

世界に目を転じると、イスラム国の傷跡が生々しい

かつて、「イスラム国」の迫害で深い傷を負ったイラクのキリスト教徒。彼らが過ごすイラク北部にあるカラコーシュの街を、教皇フランシスコが去る7日に訪問しています。(讀賣新聞西部版2021年3月9日朝刊)

この街には教会堂があり、約25万人のキリスト教徒がいるとされ、イラク最大のカトリックコミュニティーとなっています。2014年8月に「イスラム国」に制圧され、迫害を受けています。約2年に及ぶ支配により「イスラム国」はこの教会を軍事訓練場に使っていました。教会は修復されましたが、白で統一された内装は真っ黒に汚れ、壁には数百発の銃弾の痕が蜂の巣状に残っています。

街では破壊された住居の再建率は6割にとどまり、避難した信徒も完全には戻っていません。また、迫害の爪痕も未だに残り、信徒らは過激派の影を今も恐れているといいます。

教皇フランシスコの訪問で、現地信者に大きな希望

教皇フランシスコが7日に慰問した教会で、信徒のランド・カリドさん(26歳)は感慨深げに語っています。「教皇が教会再開の道を開いてくれた」と。それは、ミサがささげられたのが「イスラム国」からの解放後、初めてのことだったからでもあるのではないでしょうか。

できることならば、不幸なことはないほうがいいに決まっています。でも、いくらあがいても、もがいても現実はそうならないことが多いのです。しかも、その苦しみが非常に長く続いているように感じてしまいます。つまり、無味乾燥な状態に陥ってしまうと、八方塞がり感にも陥ってしまうのです。長いトンネルに入り込んで抜け出せないのです。抜け出そうという気力すら失せてしまいます。そして、「負」のスパイラルにはまり込んでしまうのです。

そんな時に「助け舟」を差し入れられると、俄然、力が沸きあがってきます。まさに、イラクのカリドさんにとって、フランシスコ教皇の訪問は、また、ミサに参加できたことは、生きていくための安心感をいただいた瞬間だったのでしょう。嬉しく、前に進む力をいただいたのではないでしょうか。自分たちは、教皇に大事にされている、思われている、愛されているという実感を覚えたのでしょうか。

相手にされていないと感じると、不安定になる

わたしたちの日常的な体験の中で、同じようなことってあるのではないでしょうか。愛されていないとき、相手にされていないと感じるとき、わたしたちの心はどんな状況でしょうか。やたら神経質になったり、落ち着きを失ったり、何かと不安定になっている自分を感じませんか。逆に、愛されている、大事にされていると感じるときはどうでしょう。心は軽く、明るくなって嬉しくなってきます。その安心感からくる力強さをも感じます。

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きょうのイエスは、ニコデモに、神が先にわたしたちを愛しておられ、わたしたちを天にあげようとしてくださっていることを明らかにします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです、と。なぜ、イエスはこのようなことをニコデモに語ったのでしょうか。

神に愛されていることが実感できれば「鬼に金棒」

ニコデモはファリサイ派に属する律法の指導者です。律法を文字通りに実践することが、聖なる神に近づく道であるという信念を持ち、人々にもそのように説いていました。おきてを守らないと、その人は罪びとであると決めつけてしまっていました。自らエリート意識満々の指導者の派閥に属していたのです。

わたしたち自身も、用心しないと、自分の努力で、神への道を歩まなければいけないものだ、という錯覚にとらわれてしまうことがあるのではないでしょうか。

事実、イエスのメッセージがわたしたちの努力を要求していることは確かです。しかし、イエスが望まれる福音の頂点は、ファリサイ派の人々が理想とした以上のものです。到底人間の努力一つでどうにでもなるものでもありません。それは神の恵みを前提としています。これは明らかにファリサイ派の人々の生き方では到達できない領域です。このことをニコデモに明らかにしたかったのでしょう。「神から先に愛されている」という事実、実感から、愛する生き方の力があふれてくるものであることを示したかったのです。

今に生きているわたしたちキリスト者にとっても、陥りやすい、人を裁きたくなる心、自己顕示欲など、どのように対応しているでしょうか。「先に、神から愛されている」という現実を実感できる出会いがあってこそ、それらを乗り越えることができるのであろうと思いませんか。少なくとも、人間関係で、自分が大事な人と認めている人から気にかけられると、認められると、安心して、心配事が吹っ飛んでしまうってことはあるのでは。

その関係が神との間でなされると「鬼に金棒」ですね。紛争地域における人々が、また、悩みの中にいる人々が、小さな安心を積み重ねていく先に、確かな神への道が開けてくるのでしょう。安心・安全なわたしたちを願い、一人ひとりの天への道を祈り求めましょう。

 

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