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年間第5主日:神から出てきたイエスの使命は、「宣教する」こと。その中で、・・

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年間第5主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第5主日(B年)の聖書=マルコ1・29~39

2024年2月4日

「東日本大震災の復興支援で宮城県石巻市に移住した谷口保さん(47歳)=志布志市出身=は能登半島地震の発生翌日、石川県に向かい、避難所への物資運搬のボランティアを続けている。道路の損壊や通信状況の悪さから行政からの物資支給は滞り、被災者は持ち寄った水を分け合ってしのいだ。『半島や離島が多い鹿児島も同じような状況になり得る』と非常食や日常品の備えの重要性を訴えている。」(南日本新聞2024年1月30日朝刊)

災害復興支援などを展開するNPO法人「MAKE HAPPY」の理事長である谷口さん。能登半島の付け根・羽咋市の知人宅を拠点に、主に珠洲市の避難所へ物資を運んでいます。現地に赴いてわかることは、人々の元気のなさです。気力を失くしたある中年男性。「気力がない。直してくれないか」と動かなくなった軽トラックを前にしてその男性から頼まれたそうです。地震で高齢の父を亡くした男性で「自宅に遺体が残ったままで一緒に寝て過ごしている」と明かされたといいます。

さらに、高齢者の割合の高さがあるといいます。帰省していた人々が離れると避難所の高齢者は「体感的に9割」の感をぬぐえません。運営する人も、これまた被災者です。谷口さんは「高齢化が進んでいるのは鹿児島も同じ。有事にどこに避難して誰が運営するのか。地域一帯が被災して物流が止まった時の想定をしておくべきだ」と話されます。

毎日の報道を見ていると、なんといっても思うとおりに行かないもどかしさ、大自然の力(災害)の前では、人のなす業というのは、なんとちっぽけなことなんだろうということです。どんなに資産がある人も、社会的な高い地位にある人にとっても、こうした現実を前にしたとき、どうすることもできません。これは皆にとって同じです。

何も災害時だけではなく、平常時においてもわたしたち人間の限界を覚え、行き詰まりを体験することが多々あります。そうでなくても、自らの弱さ、愚かさ、能力不足を感じることってたくさんあります。これまた例外なく誰でも体験することでしょう。

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もっと具体的に言えば、病で倒れ、財産をつぎ込んで治療に当たってもその効果を感じられない人、その結果、自暴自棄になって精神的にも落ち込んでしまう人、自分では起きあがることのできないほどのダメージを感じてしまう人間の弱さ、もろさも、誰が体験してもおかしくありません。

今日の福音で、マルコはこうした人々をしっかりと見据えています。つまり、イエスを理解するには、人間の弱さ、もろさ、はかなさ、みじめさをしっかりと意識し、見つめて、初めてできることなんですよ、とマルコは指摘しているのです。わたしたち自身、そうした生き方ができているでしょうか。

現実的な日本社会を見つめてみると、人々はより便利さを求め、安易さを求め、贅沢を求め、快適さを求め、少しでも幸せな生き方をと追求しています。絶えず、人を満足させることを狙って突き進んでいきます。

その一方で、わたしたち人間の悲しくみじめな姿をしっかりと見据え、その事実の上に立って生きるありかたをみつけることがむずかしくなっています。しかし、どんなに医学が発達し、ほかに類のない治療機器が入っても、人の病は完全にはなくならないし、人のみじめな姿も存在し続けます。この憐れな姿、事実は、権力ある人、資産家、どんなに善人であっても誰にでも訪れる現実です。そのたどり着くところが死です。でも死で終わるのではありません。

どんなに文明が繫栄し、医学が進んでも病院は患者で満ち溢れています。通院する患者さんもあとをたちません。そこには苦しみあえいでいるわたしたち人間の姿があります。この現象は昔も、イエスの時代にも、今も変わることがありません。

人間、誰にでもある苦しみ、愚かさ等に、一人ひとりは向き合ってみないといけない、というマルコ、そうしてこそ、イエスを理解し、受け止めることができます。つまり、イエスといえども、宣教するにあたりさまざまな労苦を味わったはずです。しかし、同時に、イエスはその労苦に耐えるだけの力を得ていたのです。ではどこからその力を得ていたのでしょうか。

イエスはわたしたち人間を苦しめる悪からわたしたちを解放し、救出することを使命となさっていたのです。そのためにイエスはしばしば一人でお祈りになられます。今日の福音でもそうです。でも、何を祈ったかは記されていません。そもそも祈りにとって大事なものは、内容よりも前に、神との交わりそのものが大事であり、必要なことであるからかもしれません。イエスはきっと、この祈りの中で絶対者である神との語らいの中で、ご自分の使命を確認していたのではないでしょうか。現に、探しに来た弟子に向かって「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と述べています。

ここでいう「出てきた」とは、今祈ったばかりの神から出てきたのでありましょう。つまり、イエスを派遣した神から出てきたのです。わざわざ出てきたのですから、それによって、イエスの強い使命感が表されているといえます。だとすれば、神に確認できた自らの使命感がイエスに力を与え、労苦を避けずに、担うことによって、ご自分の労苦をしのいでいったのでしょう。

イエスが来たのは、「宣教する」ためであって、奇跡は手段にすぎません。使命を遂行する中で、新たに力を得、幾多の困難を乗り越えて、救いの実現を成し遂げていかれました。

わたしたちも「宣教する」中で力をいただきましょう。わたしたちも多くの人々に、み言葉を告げ知らせる使命を受け継いでいます。この先に、死が終わりではない救いが待っています。

自分の弱さ、もろさをしっかりと見つめれば、もっと素直に神に向かうことができるのではないか、・・・と。なんといっても、わたしたちはすでに、そのように呼ばれているのです。

 

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