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年間第5主日:自らの現実の直視から、新たな出会い、歩む道が見える

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間第5主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第5主日(B年)の説教=マルコ1・29~39

2021年2月7日

現代のわたしたちの社会、特に、日本の社会は華やかで、輝かしい、快適な生の追及に人々の意識が向けられているような気がします。当然のごとく、少しでも幸せな人生の実現に向けて、あらゆる分野での研究、実験、さらなる開発が進んでいます。

多種多様の分野で研究開発が進む中で…

それは、新聞、雑誌、テレビのコマーシャルを見ればすぐにわかります。しかも、人間のあらゆる知恵と知識を使い、また、工夫を凝らす努力はそれに費やす時間など関係なく、長時間にも及びます。人間のもろさを克服し、ついに実現することを期待し、また願っているのです。

一方、科学技術の発展の裏側で、人間の弱さ、もろさ等で苦しみ、悩んでいる人がたくさんいるのも事実でしょう。科学技術の進歩、発展の恩典を受けている人はいいとしても、そうでない人にとっては、日々が生きるための戦いになっています。やはり、生きていくことは大変なことですよね。それでも、そこに楽しみがあると大きく違ってきます。

身近な日常生活の中で見つけることができるのでは、・・。日本各地において、外国人労働者が増大しております。ここ、鹿児島も例外ではありません。その外国人ご本人のご苦労もさることながら、受け入れている自治体、その職員、地域市民のみなさまのご心配、それに対する工夫も絶えることがないと聞きます。

「外国人向け表現」の工夫に取り組む役場

その中身が何かといえば、「外国人向け表現に工夫」と見出しにある企画です。外国人の方にわかりやすい日本語をいかに使うかという、受け入れ側の悩みから発想されたといえます。つまり、どのように表現すれば自分が言いたいことが相手に伝わるかという、日本語の表現に工夫を凝らしてみるという試み、講座が初めて開かれたというのです。(南日本新聞2021年2月2日朝刊)

鹿児島県薩摩郡さつま町で、町の職員を対象に簡単で分かりやすい「やさしい日本語」を学ぶ講座を始めたということです。(役場の)16課の23人が参加。町内に在留外国人が増える中、適切なサービスの提供が狙いで、多文化共生社会の推進に向けた情報発信を目指したいということです。

因みに、町内には2020年12月1日現在で、外国人424人が住み、求名地区では人口の7.7%となっています。総務課の堂園幸太さん(32歳)は「情報を発信しても相手に伝わらなければ意味がない。どのような言葉を使えば理解してもらえるか考える大切さを学んだ」と話しています。例えば「感染」は「うつる」、「症状」は「体の具合」などです。

日本では、時代の流れの中であらゆる分野におけるサービスが考えられていきます。そこまでしなくてもいいんじゃない、とわたしが思ってしまうようなところまで、サービスがなされています。ひがみ根性でしょうか。それが何だったか、ちょっと、今思い出せないんですが、・・。

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たまたま、自分が海外にいたころはこのようなことは何もありませんでした。言葉を覚えるのに必死でした。でも、それもまた、いい経験として懐かしく思い出されます。言葉に関する失敗談もたくさんありますが、今では軽く笑って過ごせますね。

イエスは人間の弱さ脆さを心に焼き付けた

きょうの福音書には、イエスを求める病んだ人々がいかに多いかが紹介されています。病に悩み、苦しんでおられる方は、時代がすすんだ現代でも変わることはありません。というより、ますます病気の方が増えているような感じさえします。

イエスはご自分がいかれる先々で病んで倒れ、自らの力で起き上がることのできない人間の弱さ、もろさを、しっかりとご自分の目と心に焼き付けておられます。そして、その状態の中からうめき声をあげ、助けを求める人間の心の渇き、こうした人間の現実をしっかりと眺め、受け止めておられます。つまり、イエスは、その哀れさ、無力、生きることのむなしさに晒されている人間を、個々にしっかりとつかんでおられるのです。

わたしたち自身はどうでしょうか。見つめることをしたとしても、せいぜい落ち込んでしまって、それでおしまいという結末ではないでしょうか。しっかりと見つめ切れていないのです。見つめ切ったとしても、「負」のほうに思いが、心が向いてしまっていないでしょうか。

現代は発達した知恵と技術に頼りすぎて…

一方で、わたしたちの現実の社会は、人間の真の姿とはうらはらに、人類の知恵と技術を精一杯駆使して、その姿を無視し、敢えて隠すかのように、もっぱら便利で安易な生活をひたすら求めていないでしょうか。その現実を、どうにかして克服できるものと期待し、そのための努力は惜しまないのです。

しかし、医学が発展し、技術が進歩して、表面上は華やかに見える社会のあちらこちらに、人間のみじめな姿を見ることができます。どんなにものが豊かになり、生活が便利で、不自由の無い生き方をしていても、臨終の病人のそばに立つとき、変わることのない人間のもろさ、弱さはいつも人間のものであることを知らされます。覆い隠すことはできないのです。

きょうの第一朗読のヨブ記は、まさに、ヨブの「嘆き節」です。彼自身、自らの苦しみの現実を直視したが故の言葉といえます。自分のもろさ、辛さ、苦しさを直視しています。そこからあふれ出てくる心の叫びが、神との出会いを招くのではないんでしょうか。

わたしたちもそうありたい。なぜって、「わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と言うイエスに出会い、神をもっと身近に感じることができるからです。心身の病にある人に出会おうとされるイエス、それは、自分の弱さを直視している人々との出会いであるといえます。「わたし」もその仲間に入りましょう。

さつま町の取り組みは、町職員が、自分たちの弱さ、足りなさを直視した結果、新たに生まれた、外国人と歩む道であると言えるのではないでしょうか。こうして、真の「おもてなし」が、一人ひとりの中に育っていくのでしょう。

 

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