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年間第6主日:人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい

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年間第6主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第6主日(B年)の説教=マルコ1・40~45

2021年2月14日

嫌なことが長く続く中で心癒されることも

わたしたちが生きている間には、言うまでもなく楽しいこと、また、辛いこと、喜ばしいこと悲しいこと、いつの時代にもついて回ります。嬉しいことばかりがあるといいのですが、それを望み、願い続けたとしても、そういうわけにもいかないのが現実です。しかも、嫌なことは長く続く気もします。

現に、新型コロナウイルスは、その感染が始まって世界中に広がり、一年余りが過ぎてしまいました。来る日も来る日もコロナのニュースで始まり、一日が終わるのです。わたしたちの毎日は、いうまでもなく「コロナ漬け」です。

わたしの周りの友人たちも、「うんざりして、テレビチャンネルを変えても、また、その局も同じことをやっている。同じ内容の、同じ捉え方、視点で報道している」との嘆き節です。こうした中で、新聞報道を読んでいますと「桜島眺め心癒して」という見出し文言が目に入りました。(南日本新聞2021年2月7日朝刊)

霧島市福山出身者の「ふるさと愛」の記事

それによりますと、地元出身者がベンチとテーブルセットを、緑地公園に一組寄贈したという「ふる里愛」のニュースです。霧島市福山の出身者でつくる「わかみこ会福山活性応援基金」(湊明代表)が、福山港に隣接する緑地広場にベンチ4脚とテーブルセット一組を贈ったという話でした。どちらかというと、わたしたちの心が萎えてきそうな暗い、嫌なコロナのニュースばかりの世の中にあって、何か明るさを、ほのぼのさを感じさせる温かいニュースです。去る1日に引き渡し式がありました。

わかみこ会の名称は近くの観光名所「若尊鼻」(わかみこばな)に由来します。人口減少が進むふる里に心を痛めた有志が2018年、応援基金を設立しました。そして、地元の住民や市と協議を重ねた結果、桜島や鹿児島湾を望む3350平方メートルの広場にベンチ、テーブルセットを設置し寄贈したのです。その整備費用は120万円だったということです。

小廻地区公民館長の隈元悟さん(64歳)は「憩いの場ができるのは地元の念願だった。大事に使いたい」と喜びを語っています。また、応援基金の松田鉄雄事務局長(73歳・東京)は「故郷をみえる形で支援したかった。地元の方はもちろん、帰省者や観光客に雄大な桜島をゆっくりと眺めてもらえればうれしい」と話しています。

人は「黄金律」の中で生きているとはいえ

最近、コロナウイルスの所為(せい)なのかどうかわかりませんが、噸(とみ)に、感じることがあります。それは、自分が、人に何かしてあげることができた時、その人がそのことを喜んでくれているのか、また、喜んでいる姿を見て、自分が喜べているのか、ということです。

その実、わたしたちの行いの源は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)という黄金律にあります。喜びが行いの実りとして自分に返ってくるということです。

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イエスにとって、病からの癒しが、その人を喜ばせるに違いないことは分かっていることです。現にそうでした。だから多くの人が病人を連れてイエスのもとを訪ねるのです。ひたすら癒していただくためです。わたしたちもそうですが、喜びがあるとそれを誰かに話したくなるのではないでしょうか。少なくとも家族とか兄弟・姉妹、恋人など、ごく親しい人には。

癒された病人が口止めされた理由を考える

しかし、今日の福音書でイエスは、癒された病人の方に厳しく注意して言われたのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と。癒された喜び、嬉しさはどれほどだったでしょうか。それを口外しないようにといわれるのです。普通に考えると、言うなといわれれば逆に言いたくなるものですよね。この病人がどのように振る舞ったのかは記されている通りです。「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」。

いずれにしても、イエスはなぜこのような注意を与えたのでしょう?

当時の人々は、長いあいだ外国の勢力下にあり、苦しい生活を強いられていました。ですから、民の念願は、そうした現実の苦しみからの解放でした。実生活の不幸な状態から脱出すること、それを成し遂げてくれるメシアを期待し、願っていたのです。彼らはイエスのなさる奇跡を見たとき、彼ら自身が遭遇している苦しみからの解放を実現してくれる力がある、できる人だと信じて疑わなかったのです。

贈る側の意に沿った利活用をしてこそ・・・

一方、イエスが民の中に見ている不幸は、彼ら自身が感じている不幸とはその中身が違っています。彼らの真の不幸は、神を見失っていることです。そして、愛することを失くしてしまっていることなのです。これこそが、人間の深い、孤独感と絶望の正体です。

すなわち、イエスと民の間には「不幸である」という受け止めに隔たりがあります。重い皮膚病の彼が癒されたことは、彼のおかれた境遇を考えると、「愛の体験」から遠く離れた日々の連続で、イエスとの出会いが「愛」を取り戻したほんとうの救いだったのです。「癒し」はそのしるしでした。

このように、イエスは、メシアに関する人々の誤解を招かないようにとの思いで、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と忠告されたのでしょう。いわゆる、人々が目先のご利益だけを求めてイエスに近づいてくることを避けたかったのではないでしょうか。彼らの求めは、真のメシアの誤解にも通じるからです。

何か他者にしていただいたこと、ものが、寄贈者の意に即した利用、活用がなされた時、双方にとって大きな喜び、なぐさめになるのは間違いないことです。わたしたちは誰でも、人のために動き、働き、そのために自らを鼓舞し、その結果、自分の成長と喜びを会得します。

慈善事業、ボランティア活動は、まさにその典型ではないでしょうか。だから美しいのです。すがすがしいのです。喜ばれるのです。歓迎されるのです。

 

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