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年間第28主日:神を知る人、知らない人、双方に共通する難敵は「生ぬるさ」

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年間第28主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第28主日(B年)の聖書=マルコ10・17~30

2021年10月10日

「待てど暮らせど連絡がない。つぶれろと言われているようなものだ」。

「緊急事態宣言」が解除されたとはいえ…

新型コロナウイルスの緊急事態宣言が1日に全面解禁され、対象地域の飲食店はアルコールの提供自粛からやっと解放されました。ただ、認められる提供時間や営業時間は、自治体によって異なり、各自治体が設けた感染対策基準をクリアした認証の有無によっても異なります。文字通りの「全面解禁」にはまだまだの現状であるといえます。

その上、店側が認証を得ようとして書類を提出しても、なかなか回答が返ってこないといいます。行政も確認作業に追われ、店の申請者からの問い合わせに対しても、「審査中」の一点張りだそうです。

冒頭のつぶやきは、大阪市中央区のたこ焼き店「宝や。」オーナーの船橋節二さん(53歳)の憤りの言葉です。(南日本新聞2021年10月3日朝刊)

緊急事態宣言が解除され、やっと店を再開できるはずが、6月に申請した大阪府の感染対策認証制度「ゴールドステッカー」が9月30日になっても承認されず、問い合わせしても、もっぱら「審査中」の返事です。行政はおいしい「エサ」をばらまきますが、なかなか食いつかせてくれないのでしょうか。今一つ、最後の一押しが足りないのです。人の「いのち」です。

感染対策認証制度は、都道府県でバラバラ

感染対策として、法的に制限を設けるのも、人のいのちを護るためでしょう。しかし、それによって、普段に生活をする上では不自由を感じます。でも、その「不自由さ」がいのちの安全・安心を与えてくれているのも事実です。

また、経済を上向きにさせることも大事なことであるでしょう。特に、飲食店が感染対策の目標にされているようですが、いかにすれば、店を開き、コロナ感染者のみならず、店の従業員のいのちを護れるかにも知恵を絞りたいですね。でも「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということもあります。より深掘りする必要があります。

先の感染対策認証制度は、そのための制度なんでしょうが、スムースに稼働していない感じがします。「書類確認など手続きが遅れている」ことが原因でしょうが、大阪府だけでなく、他の県でも同じような状態が見られます。手続きをもっと簡潔にすることはできないのでしょうか。

一方、静岡県は認証の有無にかかわらず制限を全面解除しています。ところが、「全面解除はよいと思う。ただ、店側も客側も気が緩まないか心配だ」と懸念を示す居酒屋店主(72歳)がいらっしゃるのも事実です。最後の「詰め」の段階で、各都道府県でバラバラ感が漂っています。不公平感をも漂わせています。

「永遠のいのち」の模索はヒマつぶしか?

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

きょうの福音書の初めに記されています。今の時代に「永遠のいのち」という言葉、思いが口に、心に浮かんでくる人が何人いることでしょうか。いい学校を出て、いい職場に就職し、いい地位についてお金を稼ぐことに精力を使い、引きずられていくのが現状ではないでしょうか。それがより現実的なんです。「永遠のいのち」という言葉を話題にすること自体が、非現実的、宗教の世界の話、生活にゆとりのある人たちの暇つぶしときめつけている人もいるかもしれません。しかし、中にはそれらの現象に馴染まない老若男女、確かにいます。

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福音書に登場する人がそうです。彼は「金持ち」です。「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」とあるように、この方は真剣に道を求めていたのでしょう。だから、十戒の掟を子どもの頃から守ってきたのです。イエスがこの金持ちに示した掟は倫理徳です。神を知らない人でも実践できるものです。「永遠のいのち」に入るためには、倫理徳の実践でよいということになります。現に、わたしたちの周りには神を知らない人が大勢いらっしゃるのではないですか。どうでしょうか。イエスの金持ちへの言葉は、こうした人々への大きな救いのメッセージになります。真面目に良心に従い、また、善意ある人々はたくさんいます。神の認識がなくても、神からの温かな愛を受け、導かれている人々は、天国に向かっていると言えるでしょう。

聖書に登場する金持ちは最後の詰めが甘い

それでも、イエスはこの金持ちに「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と促し、諭します。イエスの言葉を聞いて「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」のです。彼が「悲しんだ」のは、イエスの愛情を感じているからであり、また、イエスに従うことが永遠のいのちへの道であると気づいていたからでしょう。イエスは葛藤するように招いたのでしたが、「立ち去る」ことによって、彼はその葛藤から逃げました。逃避であり、解決にはなっていません。

聖書に登場する金持ちは、アリマタヤ出身のヨセフ(ヨハネ19章38節)やザアカイ(ルカ19章8節)のような人もいますが、ほとんどは否定的な評価を受ける人たちです。物質に恵まれると、神に頼る頻度が低くなりやすいのは、今の時代ではもっとでしょうか。

彼らは最後の「詰め」の段階、最後の一押しがどうしてもルーズになってしまうのですね。それは、イエスによると「神への信頼」ができない人たちだったということになるのでしょうか。しかし、彼らは決して神を否定し、享楽的に生きる人たちではないのです。でも、「信頼する」ことができなかったのでした。

さて、「神を知らない人」「神を知っている人」、はたしてどちらが幸せなのでしょう。双方に共通する難敵、それは、「生ぬるさ」です。

 

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