年間第28主日

日曜日の聖書

年間第28主日:永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?

年間第28主日(B年)の聖書=マルコ10・17~30 〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。
2018年/B年説教=神への道標

年間第28主日:今の自分に欠けているものは?環境はそっと語りかけている

今のわたしたちの環境はどうでしょう。良いも悪いも、生かしていける創意工夫が、「わたし」の中にあるでしょうか。答えは、日々生きている「日常」現場の中にあります。ノーベル賞の喜びにも、自然被災の悲しみにも、「永遠をめざした」メッセージが、一人ひとりに投げかけられています。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第28主日:日々受けている神からの招待に、どのように対応すべきか

福音の中で王からの招きを拒絶する人、礼服を身につけない人に共通することは、品格と賢明さの無さではないでしょうか。私たちは神からの招待を受けています。その招きをお受けできる「わたし」でいるでしょうか?
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第28主日:「あなたに欠けていることが一つある」と指摘されたら

この世の生活に執着している青年のこころを見抜いて言われたのです。「行って、持っているものをすべて貧しい人々に施しなさい」と。青年の中にある「生ぬるさ」を除きたかったのでしょう。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第28主日:イエスは重い皮膚病患者の「かぎりの叫び」を聞き届けた

重い皮膚病で人からは敬遠されて相手にされない中で生きざるを得ない人が民衆の前に出ることが、いかに勇気のいることか。声をかぎりに遠くからイエスさまに呼びかけるしかできなかったのです。イエスさまはその人の「かぎりの叫び」を聞かれます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第28主日:救われたことへの感謝の思いがあるかが問われている

いつでも招待されることを思い、そのことへの感謝の心がある人と、そうでない人との違いが「礼服」という姿で表現されている、ということです。つまり、救われる(宴席につく)ための資格が云々されているのではありません。
日曜日の聖書

年間第28主日:重い皮膚病を癒されたサマリア人は、神を賛美しながら戻って来た

年間第28主日(C年)の聖書=ルカ17・11~19 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止 まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」 と言った。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第28主日:一つだけ足りないことは生ぬるさからの脱出

「持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい」(マルコ10.21)。この言葉は、豊かな文明社会で、熱くなく、冷たくなく、なんとなく生きている私たちへの勧告でもあるでしょうか。
2010年/C年説教=神のまなざし

年間第28主日:傷ついた心を癒してほしいとき最高峰に神がおられる

仮に人が裏切ることがあっても、神のあたたかな愛はいつもわたしたちの上にそそがれています。ある意味で「当たり前のこと」(神の保護)を当たり前として受け止め、当たり前の反応を示すことがいかに大事であるか、改めてじっくりと見つめてみましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第28主日:いい人との関わりを通して大きく成長していきたい

イエスさまを取り巻く人々の存在は、イエスさまにも少なからず刺激をあたえてしまうのです。しかし、地上の現実にのみ心を奪われている人々には、イエスさまのことば、招きが入り込む余地はありません。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第28主日:神の国は、見える形では来ない。あなたがたの間にある

「感謝する」とは、ただ単にお 礼の言葉を伝えるだけでなく、その人の信仰告白を含む行いでした。当時、仲間としてのお付き合いのなかったサマ リア人が感謝を述べたことに意義があります。
日曜日の聖書

年間第28主日:天の国は、王子の婚宴に似ている。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

年間第28主日(A年)の福音=マタイ22.1~14 〔そのとき、〕イエスは祭司長や民の長老たちにたとえを用いて語られた。 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。