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年間第28主日:傷ついた心を癒してほしいとき最高峰に神がおられる

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年間第28主日(C年)の説教=ルカ17.11~19

2010年10月10日

神のまなざし

先日、幼稚園の運動会が終わりました。最高の好天気に恵まれ、感謝の一日でした。大きなけがもなく、子どもたちも最高のパフォーマンスを見せてくれました。子どもたちにとりましても、満足いった一日であったろうと確信します。

親、大人は、わが子・孫たちに大きな期待を寄せます。生き甲斐をも感じます。そして、万事が順風満帆であることを祈ります。「無病息災」を願いつつも、しかし、いつもそのようにいくわけではないことを知りつつも、期待・喜びの方が勝っています。

どうしてなんでしょうか。あまり考えたことはないかもしれませんが、敢えて考えてみますと、一つのことに気づかされます。それは、子どもが何かに成功した時、何かをやり遂げたとき、感謝をしたい時、必ずわたしの「近くまで来て」言葉をかけるのです。

言葉をかけることによって、子どもたちの達成感と安心感を確認できます。いい顔をしています。ごく当たり前のことを、当たり前にする(言葉に出す)ことによって、その人の成長があります。何も子どもだけではなく、大人の場合も同じです。感謝をしたい時、お願いをしたい時、いい知らせを伝えたい時等、その相手の方のところにいって、少なくとも自分の気持ちを、意見を何らかの形で伝えます。それによって、互いのかかわりが深まり、信頼心があつくなります。

今日の福音では、重い皮膚病を患っている10人の人が登場します。彼らは社会から疎外され、村の共同生活から追放される存在でした。生きる場を失い、人びとの冷たい視線にさらされ、孤立の中で病を耐えていかなければいけない毎日でした。

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その中にあって、唯一とも思える機会が訪れたのです。あの噂高いイエスさまが自分たちの近くに来られるというのです。人前に出られない代わりに、大きな叫び声をあげます。その叫びは、自分の置かれているどうしようもない環境からの救いを願う声であり、温かなやさしい愛を求める心からの叫びでした。そこには見えも外聞もありません。

今に生きるわたしたちにも同じことがあるのではないでしょうか。一人静かに、傷ついた心を癒してほしいと願います。今も昔も、人は人に支えられて生きています。その最高峰におられるのが神です。わたしの現実を見ますと、どれだけ人に支えられているのかがわかります。仮に人が裏切ることがあっても、神のあたたかな愛はいつもわたしたちの上にそそがれています。ある意味で「当たり前のこと」(神の保護)を当たり前として受け止め、当たり前の反応を示すことがいかに大事であるか、改めてじっくりと見つめてみましょう。

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