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年間第28主日:感謝の心を素直に、直ちに行動に移す。そこに救いが・・・

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年間第28主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第28主日(C年)の聖書=ルカ17・11~19

2022年10月9日

わたしたちの中に、幸せな楽しい毎日を望まない人はいないでしょう。ところが、当たり前のこととはいえ、いつも思い通りに行かないのが、これまた日々の生活でもあります。それを当然のこととして受け入れ、逆に利用しようとする人がいるのも事実です。

緊張感は決してマイナスばかりではない

今年もまた、コロナ禍の影響で、一部の企業等の就職状況が、通常とは異なった日程で組まれてしまって、学生などに戸惑いと焦りを与えてしまっている事態が発生していると聞きます。仕事探しにおいては、ただでさえ緊張するのに、そこに焦りが加わってくると緊張度も倍加してしまいそうです。

しかし、この「緊張感」があるということは、わたし自身にとっては、決してマイナスなことではありません。というのは、人との交わりを持ちながら緊張感を感じ、それを体験する度合いに応じて、「わたし」の「人」としての成長があるのではないかと思うからです。緊張すると浮足立って、その人が、いつも感じていることにちょっとズレが生じ、それにより、通常の判断と行動ができなくなっている自分になってしまい、通常時の「自分らしさ」が失われていくのです。でも、それも実は「自分らしさ」なのです。緊張した時の言動も、当たり前のことながら、その人によって異なります。が、緊張している時の、その「人らしさ」と言えるのではないかと思うのです。「らしさ」も他者との交わりがあっての「自分らしさ」だと思っています。

人はいつも周りの誰かに助けられている

これまでも、何回も分かち合ってきた事ではありますが、「わたし」は自分の周りにいる誰かに支えられ、助けられて大きくなり、そして、日々を生き抜いています。いつも誰かがいるのです。その人は陰に陽に「わたし」に影響を与えてくれたのです。確実に言える「その人」とは、言うまでもなく両親です。

でも、わたしたちが大きくなるにつれて、もっと幅広く「わたし」に関わってくれる人々が増えてきます。嬉しいとき、楽しい時に語り合ってくれる仲間、逆に、いやな気分になるとき、落ち込んでいるときに相手になってくれる親友など、広範囲にわたります。それだけ必要になるということは、「わたし」が置かれている生きる現場での役割とそれに伴う変化、移動、仕事の重要さの如何にかかってくるといえます。

重い皮膚病の人は当時、隔離されていた

今日の福音書の話は、10人の重い皮膚病に罹った人の話です。わたしたちの身近にもたくさんの病気の方がいます。特に、今は、子どもが少なく、高齢者が多くなってきている社会が、ここ十数年続いています。「少子化問題」を叫びながら、そのための何の対策もなされていないような気がしてならないのは、わたしだけでしょうか。そして、自ずと「高齢化社会」が生まれていきます。しかも、独り住まいの高齢者の増大が、新たな社会問題となっています。問題解消のために、「老人施設」をつくるだけで良いものでしょうか、と言いたくなるような雰囲気を感じてしまうのです。「少子化・高齢化社会問題」を云々している視点に、どこか違和感を覚えてしまいます。

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悪いことに、最近では目に見えて、お年寄りが「邪魔者」視されていませんか。社会の一員としての存在でなくなっているような、・・。わたしだけがそのような見方をしているのかもしれませんが、最近のテレビコマーシャルでも気になることがあります。それは「家族の者にお世話をかけるわけにはいかない。せめて葬式の費用くらいは準備しておかないと」というような保険業界のコマーシャルです。今のご時世では、老夫婦が考え、思うことといえばこのようなことなのでしょうか。もっと老後を愉快に楽しく過ごせないものでしょうかと思ってしまいます。でも、そうした心配をすること自体が楽しいのでしょうか、・・?

イエスは、疎外された人たちの叫びに…

それにしても、人々のお世話を一番必要とする10人の重い皮膚病に罹った病人。イエスの時代の社会では、このような病気の人は本当に苦しんでいたと思います。否、苦しい状況に追い込まれていたといえるでしょう。彼らが住んでいる地区の共同生活から追放されて、その地区に入るときは鈴をつけて自分の存在を知らせなければいけませんでした。さらには、人々からは白い目で見られ、冷たい視線を浴びせられていました。普通に生きることがゆるされない状況にあったのです。今のわたしたちも体験していないでしょうか。他者から疎外され、無視されることのなんときついことか。いわゆる、強烈な「いじめ」です。

それこそ、「溺れる者は藁をもつかむ」心境にありながらも、それすらも受け入れてもらえない環境にあったのです。でも、その時が来たのです。イエスとの出会いです。イエスのうわさを漏れ聞いた彼らが、今度は「一日千秋の思い」でイエスとの出会いを待っていたのです。イエスが自分たちの住まいの地区近くにおいでになったと聞くや、声をかぎりに遠くからイエスに向かって叫ぶのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。その声は、すべての人から見捨てられた人が、必死に誰かの助けの手を求める心からの叫びでした。どうしても人の助けを、支えを必要としている人、自分の力では自らを支えきれない人の力強い叫びでもありました。

考えるまでもなく、わたしたちは生まれたその瞬間から、温かく受け入れてくれる両親を必要としています。食べることを始め、生きるために多くのことにお世話をいただいてきました。また、今でも他者の力をいただいています。それは恵みです。

わたしたちの人生は、この恵みの中で育まれ、これからもそれは続くのです。それを確かなものとするために、人とのつながりに感謝する心が大事です。そして、その「つながり」はさらに強固になり、安定します。

今日の福音では、いやされたことに気づき、感謝するためにイエスのもとに戻ってきた一人のサマリア人がいます。彼にイエスは言います。「あなたの信仰があなたを救った」と。それにより、彼はイエスの愛により深く、より確かにつながれたのでした。

わたしたちも恵みを感じたら直ちに行動に移しましょう。そのために体を動かしましょう。イエスのもとに戻って、あらためて「感謝する」ためです。

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