洗礼者ヨハネの誕生(B年)の説教=ルカ1.57~66、80
2012年6月24日
近頃の日本人の名前は難しく、そう簡単に読めないですね。幼稚園での子どもたちを呼ぶときは覚えた名前で呼びますので容易に使えますが、字に書かれると、はたして何と読めばいいのか戸惑ってしまいます。
名前はその人の一生涯をとおしてついて回るものです。それだけに、親御さんも心を込めて命名したものと確信いたします。一度は、どうして自分の名前はこうなの、と親御さんにその根拠を聞いておいたほうがいいかもしれませんね。意外と新しい発見があるかもしれません。
今日は日曜日ですが、通常の年間の典礼ではなく、ヨハネの誕生を祝います。それは誕生に始まるヨハネの生涯全体が、イエスの先駆者としての意味をもっているからであるといわれています。
生まれてきた子どもに命名するということは、普通でさえ心を砕きます。今日のヨハネの誕生の話の中で、驚きなのは、妻エリザベトの思いとザカリアの思いが一致しているということです。夫婦で事前に話し合うこともできなかったのに、また、集まった人々も事前の話し合いがあったであろうことを想像すらしていませんでした。
その上、当時の習慣によれば、父親の名前をとって「ザカリア」と命名するのが通常でした。それなのに、先祖の家系にもない「ヨハネ」という名で夫婦は一致したのでした。このヨハネの誕生が並みの出来事ではないことに、みなが気付き始めたのでした。「みな、恐れを感じた」「この幼子はいったい、どんなものになるだろうか」と語りあったのでした。
人々の中におけるこの変化は、わたしたち一人ひとりの信仰上の変化、成長を物語っているともいえます。わたしたちが神のことについて関心を抱き始めるのは、最初から神々しい、立派な動機があって動き出すものではないでしょう。映画を見てとか、音楽を聴いてとか、聖地を訪れてからとか、ごくわたしたちの五感に触れる世界から始まっているのが普通です。人間個人の喜び、驚き、嘆き等、様々な動機が重なり合っています。
エリザベトの家に集まった人にとっても、エリザベトが主に大いに慈しまれて子どもを産むという、人としての普通の、自然な喜びからです。そして驚きに変わり、畏れに変化していきます。ヨハネに対してと同じように、わたしたちにも「主の力が及んでいる」のです。そこから信仰は始まり、育っていきます。
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