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四旬節第2主日:神と人を相手に交わり、芯のある信じる人生を目指して

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四旬節第2主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

四旬節第2主日(B年)の説教=マルコ9・2~10

2021年2月28日

「教育」という言葉を辞書で調べてみました。すると、以下のような説明があります。

「一般的な(その面の)知識や技能の修得、社会人としての人間形成などを目的として行われる訓練。(狭義では学校教育を指す)」(「新明解国語辞典第5版、三省堂」)

教育は訓練、訓練はお互いに教わりあうこと

この説明の中で、特に大事ではないかと思うのが、「訓練」ということです。この言葉が意味する内容に「繰り返す」という動作が入っているからです。時を変え、中身を変え、場所を変えて繰り返される実践、それが教育なのではないでしょうか。

それに加え、わたしたち人間同士の場合、もう一つ大事になるのが、訓練する方もされる方も、互いに「教わり合う」ということです。双方にとって「訓練」なのです。お母さんと赤ちゃんの関係然り、学校の教師と生徒の関係然りです。

奄美の「生徒指導ハンドブック」今後に期待

この度、奄美中学校1年の男子生徒の自殺問題で、市教育委員会が設けた再発防止対策検討委員会(委員長・假屋園昭彦鹿児島大学大学院教授)が「生徒指導ハンドブック」を作成し、朝山毅市長に報告しています。(南日本新聞2月23日)

この出来事は、2015年11月に起きたもので、22日に制作された最終的な再発防止策のハンドブックは、この2月中に、各小中学校に配布されるということです。また、遺族の方から求められた防止策の実施状況を検証する第三者機関について、市教委は「21年度中の設置を目指し、メンバーなどを検討中」としています。假屋園委員長は「現場で教員が活用できるよう工夫した。遺族の思いも最大限反映している」と述べています。

わたしたちの社会では、何か「こと」が起きないと、その対策に手が付けられないのかなという気がしています。「こと」にもよるでしょうが、予想される出来事を想定して、その予防策を講じる準備はできないものでしょうか。この度の「防止策」の中に含まれている内容に、何があるのかその詳細を知る由もありませんが、事前にその内容を検討、実施できなかったのでしょうか。といいますのは、「防止策」ですから、今後の事件を未然に防ぐ策も含まれているんだと思いますが、・・。遺族の方がおっしゃる「検討委終了ありきで公表された」防止策でないことを願います。

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また、これまで同じように起きた数多くの「いじめ」出来事は、今回の事件でどのように生かされているのか、体験してきたことが実践の場で生かされているのだろうか、と単純な疑問を抱いてしまいます。「教育」は人を相手にするのであって、組織、制度を相手にするのではないでしょうと思います。

イエスの弟子たちへの関りは繰り返しだった

イエスの弟子たちへの関りは、イエスの真の姿を理解するための長い、繰り返しの付き合いでした。今日の福音書の話は、三人の弟子たちの前で、お姿が変わる(変容)出来事です。ペトロの反応が中心になっていますが、そのペトロはうろたえ、慌ててしまっています。「これはわたしの愛する子、これにきけ」という声に対して、どう返答すればいいのかまごついているのです。

このペトロの「まごつき、慌てぶり」は何を意味するのでしょうか。ペトロにとって、イエスは普通の存在者ではないということは、多少分かっていたのでしょう。というのは、この出来事の前、フィリッポ・カイザリアで、イエスは「メシア」であると宣言しているからです。でも、そのメシアであるという理解度が十分であったかというと、そうではなかったということの証明が、ペトロのきょうのこの慌てぶりなのです。

そこでイエスは、今一度ペトロに、ご自分の真の姿を垣間見せるのです。ペトロへの繰り返しの訓練(教育)です。ペトロの中にあったメシア観は、ローマ帝国の支配から解放してくれるメシアを、イエスの中にだぶらせていたのです。「あなたはキリストです」という言葉の中に、ペトロの思いが込められていました。それは人間の思いでした。神から遣わされた「メシア」についての神の思いを誤解していたのです。

それを証明するもう一つのことがあります。イエスがエリアとモーセと語り合っているときに、ぺトロが口をはさんで言った言葉です。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と、何ともトンチンカンな言葉を発してしまうのです。

ペトロのメシア理解は少しずつ、少しづつ…

その「恐れ」からくる慌てぶりは、ペトロは確かに、イエスが特別な存在者であることはわかっていましたが、そのメシア理解とイエスの本質との落差の大きさを示しているのです。同時に、ペトロの理解が不十分であることをも示しているといえます。ペトロが抱くメシアは、十字架に死ぬメシアではなく、勝利するメシアだったのです。しかも、ほかのユダヤ人も普通に抱いていたローマ帝国に対して。

しかし、この出来事があったからといって、すぐにイエスの正体が完全に分かったわけではありません。少しずつ、少しずつ、この「恐れ」が、人間を越えた存在に対する畏敬の念と、神が示してくれた愛に対する信頼へと変わっていきます。芯の通った生き方に変えられていくのです。

イエスの弟子たちへの教育は、適宜に、ゆっくりと、繰り返し、段階的になされていきました。それは、継承していくものが尊いものだけに、ぞんざいになってはいけないからでしょう。つまり、神と人との人格的交わりを強く求める神を宣べ伝えることが、今のわたしたちに託され、継承されています。それだけに芯の通った生き方が求められます。

わたしたちの人生は、より豊かに信じていく歩みであるといえます。歩みの邪魔をするものを排除し、予防し、倒れては起き上がり、それは、自分のいのちを神に返すまで続くのです。

 

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