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四旬節第3主日:神は、「わたし」の協働を不安と期待の中で待ち続ける

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四旬節第3主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

四旬節第3主日(C年)の説教=ルカ13・1~9

2022年3月20日

”ラジオ局の戦況・支援”報道に心底から共鳴

「リビウのラジオ局24時間放送」「『必要とされている』戦況・支援情報」(南日本新聞2022年3月13日朝刊) この見出しを見てすぐに思い出しことがあります。

1986年2月22日のフィリピン軍改革派将校のクーデター決起から25日のアキノ政権樹立に至るまでフィリピンで発生した革命(エドゥサ革命)であります。「エドゥサ(EDSA)」は、マニラ首都圏にあるアギナルド空軍基地が面するエドゥサ通りのことを指します。この革命では、フェルディナンド・マルコス政権に抗議する100万の群衆がエドゥサ通りに集まりました。エドゥサ通りは少なくとも3回、革命や大規模な抗議活動・デモの舞台となっており、いつ起こったものか判別できないので、エドゥサ革命という名称はフィリピンでも、あまり使われていません。「フィリピン2月革命」「フィリピン市民革命」「2月政変」とも呼ばれることもありますが、フィリピンでは「ピープルパワー革命、単にピープルパワー(People Power Revolution, People Power)」という愛称で呼ばれることが最も多いです。またコラソン・ アキノの選挙時のシンボルカラーであった黄色から「黄色革命」とも呼ばれています。

(ウィキペディア)

この闘争の中、ラジオベリタス放送局の国内向け放送は、逐一その動向を放送し続けたのでした。日本のテレビ局などから連絡がわたしども日本語課にもあり、ベリタスへの仲介をしたことがあります。わたしはその時、ベリタスに勤めていましたので。

今、世界はロシアのウクライナへの侵攻により、戦争状態と化しています。この中にあって、ウクライナ西部リビウのラジオ局「リビウ・ウェーブ」がロシア軍の侵攻以降、24時間体制で全国の戦闘状況や避難民への支援、隣国ポーランドとの国境に続く道路の交通情報を伝えています。「早く正確な情報を得られるラジオが、人々に必要とされている」と、幹部のウォロディミル・ルチシンさん(48歳)は力をこめます。

ウクライナのニュースは特撮映像ではない!

連日、日本でも放送されるニュース報道を見ながら、「これって映画じゃないんだよね」「特撮映像でもないんだよね」と、まるで映画のワンシーンみたいな情景が、眼前に展開されるのです。21世紀のこの時代に、最悪の人道危機、戦火に市民の逃げ場がなく、飲み水や燃料もない市民の困窮が極まっています。すでに猛攻撃にさらされた市街地、さらに、ウクライナの都市部を取り囲むロシア軍は、空爆や砲撃を続け、市民1500人以上が命を奪われています。こうした報道を受けて思います。戦争は絶対「ノー」です。いただけませんよね。

今日の福音書の話は、ごく日常的な出来事から始まります。しかし、「戦争」は日常的ではありませんね。あまりにも「悲劇的」過ぎる出来事です。

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神は本当にいるのか?愚痴りたくもなるが…

それでも、だからこそ、なぜこのようなことが起こらなくてはいけないのか、どうして、この人たちがこんな目に遭わなくてはならないのか、わたしたちはその説明を求めたくなります。これでも神はいるの、と愚痴りたくもなるのです。そして、悲劇をもたらした相手を酷評し、非難してしまいます。

他方、第三者的に、運命だからあきらめなくてはならない、または、悪いことをしたので天罰だという人もいます。

今日の福音書にあるシロアムの塔の下敷きになった人々の事故は、彼らの罰のせいなのでしょうか。一種の運命論、あきらめ、という考え方は、わたしたちの信仰からすれば、お門違いというか、無縁なものです。

というのは、神は創造されたわたしたちすべてを「よし」とされているからです。それゆえに、日々、わたしたち一人ひとりを心にかけ、祝福しておられるからです。つまり、わたしたちの幸せを願い、そのための働きかけを常になさっておられるのです。わたしたちは、日常のいつもの動きの中では、神の働きかけを感じることが少ないのではないかと思いますが、それが、いきなりの状況変化によって自分が苦境に立たされると、「苦しい時の神頼み」ではないですが、神を意識します。これ自体が、人はいつも神との関係の中で生きていることの証しでもあるでしょう。そして、神に向かって叫ぶのです。大いに叫んでほしいです。神はそれを望んでおられます。他者を非難するのではなく、・・。

歴史が動くのは、神と人が”ともに”働くとき

わたしたちが通常、祈り、願う時って、その実、何をどうしてほしいというのでしょうか。視点を変えて振り返ってみますと次のようにも言えるのではないでしょうか。不幸な事件を噂するとき、知らず知らずのうちに事件に遭遇した人々の罪に目を向けていませんか。つまり、今日の福音書では、まさにこのことが指摘されています。

イエスは、当時、実際に起きたと思われる虐殺やシロアムの塔の崩壊を取り上げ、わたしたちの心に忍び込みやすい思い込みを訂正しようとされるのです。大げさな言い方になりますが、「わたし」がその環境を動かすと考える時、もっと大きく言えば、「人間が歴史を動かす」と考える時に起こりがちな不都合がこれです。つまり、罪へ落ち込み、「滅び」の道が待っているということです。

他方、「神が歴史を動かす」と考える時に起こりがちな不都合、それは、人は与えられる時間を無駄に費やし、怠惰な生き方をしてしまうかもしれないということです。それでも、神は忍耐し、待ちつづけられるのです。人はいただいている時間を、どのように用いるのか、これが日々求められています。

神は、ともに働いてくれる人を求めているからです。そして、神と人がともに働くことによって、歴史は動くのです。

 

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