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キリストの聖体:無視されてもなお、わたしたちに留まろうとするイエスの愛

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キリストの聖体(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

キリストの聖体(B年)の説教=マルコ14・12~16、22~26

2024年6月2日

最近、わたし自身は、社会の流れについて行くことができているのだろうか、と思わせられる時があります。特に、新聞等を読んでいる時、新しい言葉の表現を目にした時です。

先日、「スポハラ根絶へ・・」という見出しを見つけました。「スポハラ」という表現を初めて目にしました。「スポーツハラスメント」のことだそうです。記事を読んでみますと、学校の部活動などで、暴力や暴言などの不適切行為「スポーツハラスメント」をなくすには、どうすればいいのか、という研修会(14日~15日)に関するものでした。

この研修会は、鹿児島県教育委員会が、指導者を対象にしたもので、鹿児島市と奄美市で開催されています。講師は、大阪体育大学の土屋裕睦教授(スポーツ心理学)で、スポハラ根絶のため、子ども優先の指導実践を呼び掛けています。土屋教授によると、「スポーツ界における武力行為根絶宣言」(2013年)を機に、体罰が減少していると紹介しています。一方で、暴言やハラスメントの通報や相談は年々増えていると指摘。「自分の経験から、ハラスメントを肯定してしまう指導者や保護者はまだいる」と警鐘を鳴らしています。

参加者との討論の中で、参加者から「指導者の独りよがりな行動」「選手を攻撃している」などの意見が出されました。これに対して、土屋教授は「指導の意図と、子どもの受け取り方が違うことがある」と説明し、子どもと丁寧に対話するよう促しています。

体罰が根強く残る理由について土屋教授は、指導者が簡単かつ短期的に効果を得られると感じていることが要因と分析しています。「体罰では、子どもが自分のどこに問題があったのか理解しづらい」と解説し、選手の自主性を育てるボトムアップ式の指導法を勧めています。また、「選手のために学び続ける指導者であって」とエールを送っています。

学校の部活動にしても、地域社会のスポーツ少年団のクラブ等にしても、相手が子どもである限り、どこの学校、地域社会においても同じような現象が繰り広げられているのではないかと想像します。それというのは、どこにおいても指導者は一生懸命であること、それゆえに、熱が入りすぎてヒートアップしやすい環境にあるのではないかと思われます。

その上、相手が子どもであるがゆえに、子ども自らの自己表現力が乏しく、自己説明ができないままでいることがほとんどではないかと推察します。したがって、子どもを代弁してくれる周りの人がいるということは、子どもにとってありがたいことです。同時に大人が、表面だけでなく、子どもの見方を学ぶことが大事になってきます。今や、教師、大人も、常に子どもに教わる考え、姿勢が求められているのではないでしょうか。

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きょうはご聖体の祝日です。みなさんもよくご存じの通り、最後の晩餐の席上で制定されました。それは、イエスにとってこの世における最後の時、死を目前にし、そのことをしっかりと自覚していたその時でした。そして、ご自分の最後の時を弟子たちにも告げておられました。当然のこと、ユダヤの指導者たちによって十字架の刑に処せられ、この世から抹殺されることもよくよく承知していました。そうであるなら、ではどうしてそのことを回避しようとされなかったのか、人間的に考えれば理解に苦しみます。その上、イエスとしては、何も咎められるようなことをしてきたわけでもないのに、その身をユダヤ人の手に委ねられたのです。

一方で、イエスの活動の原点は、天のおん父の愛、それは、独り子さえも惜しまずわたしたち人間のためにお与えくださった愛だったのです。それゆえに、イエスは誤解されっぱなしでした。その挙句の果てが、十字架刑でした。イエスを擁護する人は誰もいませんでした。これは、神からのゆるしの、救いの恵みを、わたしたち自らが拒んだ結果であったということができます。二重三重にイエスを追い詰めてしまったのです。そのような、人としての闇の部分が、それゆえに神の愛を拒もうとする姿、形が、最も凝縮した夜でもあったのです。逆に言うと、神の愛が最高に噴き出してきた夜であったのです。

このような仕打ちを人間から受けたイエスではありましたが、それでもなお、わたしたちの間に留まろうとなさるのです。これがイエスの聖体の制定でした。つまり、一片の白いホスティアです。しかも、人が無視しようと思えばいとも簡単にそうすることができる姿で、わたしたちに留まろうとなさるのです。これが神のなさり方です。

その始まりは、過ぎ越しの食事の準備が用意される様子を見れば分かります。というのは、やはりここでも、イエスの意志が重きをなしています。こう記されています。「弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。』弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」と。

マルコが、イエスの意志に重点を置いたのは、この過ぎ越しの食事がいつものそれと違うことを意味しています。過ぎ越し祭は、神が民をエジプトから解放したことを記念して、小羊を屠って家族で食べる日です。しかし、この日の食事は違っていました。今まさに成就する現在として祝う食事になるのです。別れを惜しむ晩餐ではなく、出エジプトを凌駕する新たな過ぎ越しを祝う晩餐、食事なのです。ですから、パンとブド―酒を説明する言葉が語られています。

「取りなさい。これはわたしの体である。」「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と。

 

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