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年間第10主日:日常生活の中に働かれる神(聖霊)の介入を気づいているか

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年間第10主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第10主日(B年)の説教=マルコ3・20~35

2024年6月9日

わたしたちの日常生活において、自ら判断して行動するときに、きわめて難しい局面に立たされることがよくあります。ある時には、そのものについての情報不足から、判断するに十分な資料をそろえていなかったので、または、全く自分は関係していないことだったりとか、によってその難しさに違いがあります。当たり前のことかもしれません。限界ある人間のすることですから。

それにしても、問題によっては話の輪の中に入っていけなくて、ほとほと困ってしまうことがあります。そのような時って、さびしいものですよね。

幼稚園の子どもたちと話をしている時に、よく体験します。子どもたちとアニメの話になると、まったくもってついていけないなと感じております。話の筋は読めないし、登場人物になると、かいもく話しになりません。テレビの影響はすごいです。だからこそ、番組の選択をして子どもに提供することが大事になってくること、それは、言うまでもないことだとよくわかります。なんといっても、子どもは「信じること」を大事に、その生命を生きている成長期にいるからです。

今日(こんにち)でこそ、子どもに関するたくさんの情報があり、その理解を助ける情報等も選択することが出るようになりました。それでも、いまだに子どもへの理解のなさから発生してくる出来事が後を絶ちません。

今の社会において、わたしが気になっている出来事を取り上げるとすれば、「幼児・児童虐待」があります。2010年(平成22年)頃から急激に増え始め、2018年には15万9850件に到達しています。この増加だけ見ると、子どもの育成環境が悪化しているように見えますが、虐待件数が増えているという意味ではなく、虐待に対して社会的な関心の高まりが、従来見つけられていなかった虐待の発見や、しつけや育児に対する意識の変化が現れているものだといえます。(増野行政書士 国際総合事務所)

確かに、虐待に関しては、古くからあったもので、社会的に取り上げられるようになったのが最近になってからであるといえます。わたしたちの「意識の変化」から、社会的な関心が高まったとはいえ、それが、みなの心の中で関心事となり、消化されているのであれば、もっといい結果が出て来てもおかしくないと思うんですが、なかなかなくなりません。少なくとも、身近にいるわが子の育ちから学んでいきたいと思いますが、・・。

鹿児島県は、県内の4児童相談所(中央、北部、大隅、大島)と市町村が2023年度に認定した児童虐待件数が前年度より206件多い3029件で、12年連続で過去最多を更新したと明らかにしています。種別では、心理的虐待が1891件(前年度比101件増)で最も多く、全体の71%を占めています。続いて身体的虐待468件(47件増)、ネグレクト266件(69件増)、性的虐待30件(15件増)でした。これらの主な虐待者は実父(1248件)と実母(1020件)で合わせて85%に上っています。

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人類の成長過程に、昔も今も違いはなく、同じだと思うのですが、・・。ところが、人間(子ども)の成長について知られていなかったことが、科学の進歩により少しずつ明らかになってきた今、人の育ちのメカニズムを受け止めきれないがゆえの現象が、ひょっとして「虐待」なのではないかと思ったりします。

イエスの宣教はまさに、特に当時の指導者階級の地位にいた人たちから理解されることなく、どちらかと言えば、拒否され続けられていたのです。今日の福音ではそのことが描かれています。しかも、身内の者からも「イエスは気が狂った」と判断され、彼らはイエスを呼び戻そうとしてイエスのもとに来るのです。身内の者は、あまりにも熱心な宣教活動に没頭するイエスを見て、常軌を逸した動きだと思ったのでしょう。確かにそう思わせるような動きをしていたのです。

神の国を宣教し、悪霊を追い出すイエスのもとには群衆が集まってきます。しかし、今日の福音にはイエスを理解できない人々、理解しようとしない人々が登場します。一方は身内の方々、他方はエルサレムから下ってきた律法学者の面々です。

身内の者たちは、イエスが「気が変になった」という風評に動揺し、連れ戻すために来たのでした。イエスへの悪意を持ってきたのではなく、おそらく愛情からだったのでしょうが・・。

一方、律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と主張しています。つまり、彼らはイエスが「悪霊を追い出している」ことは認めています。ただし、それは「悪霊の頭の力」を借りてのことなのだとみなしているのです。彼らが問うているのは、奇跡の有無ではなく、奇跡をおこなったイエスは一体「誰なのか、何者か」ということです。

これらに対してイエスは例えを用いて、彼ら、身内の者と律法学者、の不合理さを指摘なさいます。律法学者たちには、王国と家のたとえと家財道具のたとえを用いて、イエスの業は聖霊の働きであり、これを見落としてベルゼブルの働きであると言い張る者は「聖霊を冒涜している者」であるということになる、と語られます。

そして、身内の者には「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と教えられます。イエスが説く神の国は、血脈を中心とする人間関係を終わらせ、まったく新たな関係を作り出しています。人との緊密な関係を求める神は、イエスを通してわたしたちの間に介入されました。今もなおそれは続けられています。

日常の中で出会う人、出来事を通して、神はわたしたちにご自分を見せ、語り掛け、交わりを持とうと介入されます。わたしたちはそれにおごらず、分かろうとしているのか、・・・。

素直に、静かに聖霊の働きを見極め、前に進みたいですね。

 

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