年間第10主日:イエスは「常識」を超えた世界へ、私たちを招いている

「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第10主日(B年)の説教=マルコ3・20~35

2018年6月10日

「常識」とか「人並み」って何でしょう?

「人間の常識」をもって「人並みに」生きる、と言ってみても、抽象的な響きの域を出ていないような気がします。「常識」って何でしょう。「人並みに」ってどのようなことでしょう。

「人がするから自分も同じようにする、ということを、わたしは息子に許さなかった。友だちがマンガ本を読んでいるからボクも、という要求はいけない。友達が持っていて、自分にはないものもあるだろうが、友達は持っていなくて、自分には与えられているものもあるだろう。だから違いを言い立ててはいけない。この認識を確立することだけが、人の幸福を左右する。」(曽野綾子著「人間の分際」2015年)

子どもの時代は、他人がしていること、身につけているもの等、その時の自分には得がたいこと、ものに憧れます。それこそ、「人並みに」生活していたい気持ちになっていくのでしょうか。

「人並み」の追及は個人の尊厳の放棄!と説く人も

それにしましても、この「人並み」という概念はあまりにも曖昧です。何をもって「人並み」とするのでしょうか。「人並み」であれば、何をしても許されるのでしょうか。「隣の奥さんもトイレットペーパーを買い溜めした。だから私も買ったのだ。どこが悪いの、という判断である」。曽野綾子さんは、上記の同じ著書で、人並みになることを追求することは、個人の尊厳の放棄であると表しています。

「常識」は国や地域、個人によって、全く違ってくる

一方で、「常識」もこれまた、何と曖昧な概念なんでしょうと思ってしまいます。食事の時、器を手に持って食するのか否か、または、食べかすを床にポイ捨てするのが非常識でない国もあると聞きます。国、地域によって、全く違う習慣があるので「常識」も違ってくるようです。

また、よく聞く話です。「あなたの常識とわたしの常識は違う」「何が常識かなんて人それぞれでしょう」と。また、時代によっても常識は変わりうると感じている人もいます。昔、日本において、公共の場所で、喫煙することは非常識ではありませんでした。ところが、今では、認められた場所以外で喫煙することは非常識になります。

今日の福音のヒントを「脱常識」に求めたい!

どのように考えればいいのでしょうか。結論を出すのが目的ではありませんが、今日の福音から何かに突き当たるといいのになと思っております。

今日の福音では、イエスさまが真に理解されないで、身内からは「彼は気が変になった」といわれるほどに見られてしまっていたというのです。民衆から取り囲まれ、食事をする暇さえなかったイエスさまにとって、周囲の人々からみると常軌を逸していたのです。

律法学者たちは当時の常識でイエスを判断した

その中で急先鋒になっていたのが律法学者たちです。彼らは、イエスさまが悪霊を追い払っているという事実を認めながらも、その根拠になる神の力を、イエスさまの中に認めようとしなかったのです。あくまでも、これまでの自分たちの指導者階級としての誇り、威厳、権威にしがみついていたかったのです。なぜならば、自己否定につながるからです。これまで自分たちが築いてきた世界を捨て去ることですし、民衆からも拒否されてしまうことになります。人間的に見れば、悔しいのです。イエスさまに負けたくないのです。自分たちの価値観で、イエスさまの業を見、判断しようとします。それが、彼らの「常識」の世界なのです。

年間第10主日:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母である
年間第10主日(B年)の聖書=マルコ3・20~35 〔そのとき、〕イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。

彼らは、イエスさまの言動を「悪霊の頭によって悪霊を追い出している」ということにしてしまいました。また「イエスはベルゼブルに取りつかれている」とも言ったりしています。彼らの中にはかなりの強引さで、自分たちの世界にイエスさまを引き込んでしまいたいと思っているようです。彼らの考え方の根底にあるのは、彼らなりの「常識」の世界です。その世界の感覚でイエスさまの言動を受けとめようとしても、到底無理な話です。イエスさまの業は、常識を超えたところに実現しているからです。常識人のわたしたちにはたどり着く力の不足を感じます。

信仰の世界は、「常識」を超えたところにある

人であれば誰もが持っている「良識」を目覚めさせましょう。さらに「信仰心」を呼び覚ましましょう。そこに、常識を超えた世界が展開されていくのです。この世に「絶対的な」世界はないでしょうが、そこに懸けていくことはできます。そこが「信仰の世界」と呼ばれているのではないでしょうか。

信仰者にとって、イエスさまの存在そのものが「常識」の世界を超えています。だからこそ、わたしたちも常識家でなく、生きる重さに押しつぶされながらも、あわれみ深い存在者に出会いたいという強い願いを持ち続けることでしょう。その先に「常識」を超えた人、世界に出会うことができます、と今日のイエスさまは招いておられます。

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