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待降節第2主日:『悔い改め』は生きる姿勢の転換。その難題を可能にするには

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待降節第2主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」

待降節第2主日(B年)の説教=マルコ1・1~8

2023年12月10日

『千本イチョウ』(垂水市)の新聞記事から

「垂水市の『千本イチョウ』のことである。近くに暮らす中馬吉昭さんと妻の信子さんが所有地に整備し、開放しているイチョウ園だ。『眺望が美しいこの地に桃源郷をつくる』。その一心で45年前から、荒れ地を整え、苗木を一本一本植えていった。成長した約1200本の木はこの時季、一帯を黄金色に染め、多くの人を引き寄せる観光名所となった。二人三脚で期間限定の絶景を作り出した夫妻はともに80代となったが、今なお草払いや実った銀杏の収穫作業に精を出す。その上、春にも足を運んでもらおうと、桜の植樹を進めている。吉昭さんによると、今季の色づきは例年より1週間ほど早い。でも、焦る必要はない。落ちた葉が足元につくりだす黄色い じゅうたんもまた風情がある。しばらくの間は、見に行って損することはなさそうだ。」(南日本新聞2023年12月5日「南風録」朝刊)

このコラム記事は、「損失回避」の心理が働く影響についての論評から始められています。つまり、「今なら半額」と期間を限定する売り文句につられ、無駄な買い物をしてしまった経験がある人は少なくないだろう、ということです。言われるまでもないことですが、わたしたちは得た喜びよりも、損した不満を強く大きく感じてしまい、くよくよして湿っぽくなっていきますよね。だからでしょうか。あなたの人生で一番記憶にある出来事、思い出はどんなものがありますか、と問えば、多くの人が悲しかった体験、辛かった出来事が多いですよね。

さらに感じていることがあります。テレビ等、幾多のコマーシャル映像を見るたびに思うんです。確かに嘘は言っていないんでしょうが、なんだか脅迫じみた(?)宣伝文句が多いとは感じませんか。「脅迫じみた」とは大げさですが、「~~する恐れがあるのでこの薬は役に立ちます」とか、「~~の心配を緩和してくれます。この保険は・・」です、とか。人間の心理の負の部分、弱い点を強調して宣伝文にし、製品を購入してくださいと呼びかけているような気がしてなりません。コマーシャルはどこも、いずこの国でもそうなんですかね。「負の部分」を言わないで宣伝してくれる会社があるとすれば、製品にもよりますが、どんな文言になるのかなと思ったりもします。

以前流行したキャッチコピー「オモテナシ」

いずれにしましても、上記に記された内容は、あくまでも、消費者の立場に立った評価であると感じています。見て楽しむ場を提供してご苦労してくださったお二人の立場は、この論評の中には言及されてはいないようです。でも、提供してくださる方がいるから、それを享受できる恩典に与っているのは確かです。「損をしない」「恩典に与っている」限り、提供者の側からは完全な「奉仕」であるといえるでしょう。つまり、他の多くの人が、その情景を見るために来て、楽しんでいる姿を見て、提供してくださっている人が幸せを感じる、これって「奉仕作業」でなくて何でしょうか。

かつて、東京オリンピックを誘致するために、有名になったキャッチコピーがありました。「オモテナシ」がそれです。滝川クリステルさんが表現してくれたあの姿は、とても印象的でした。まさに、日本人の持ち味ではないでしょうか。要するに打算も入っていない、表面的な振る舞いではないということです。まさしく奉仕の心でいっぱいの「おもてなし」です。だからこそ、それを受けた相手の方も無条件に喜ばれるんですよ。そこから、人誰もが持っている心の温かさが刺激され、初対面でもかかわりが深まっていくんですね。

洗礼者ヨハネが告げた”力強いメシア”の訪れ        

イエスの心は実に温かな、それでいて力強い、知恵にみちた豊かさがありました。

イエスの誕生時は、なんとも弱弱しいイエスを感じさせることが重なっています。その力強さを見ることがありません。ヘロデ王の迫害を受け、エジプトへの逃避をしなければいけなくなったことは、なんとも弱弱しさが印象付けられます。ところが、洗礼者ヨハネは力強いメシアの訪れを告げます。

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その始まりは荒れ野でした。荒れ野に現れた人、それが洗礼者ヨハネでした。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(マルコ1・2b~4)

「悔い改め」とは?戻るべき「主の道」とは

ここでいう「主の道」とは、言うまでもないことですが、こちらからあちらへ歩いて移動する一般道のことではありません。主キリストへの道であり、主がわたしたちのところへ来てくださる道なのです。いわゆる、主キリストへと直接につながる「専用連絡通路」です。

そして、その道がいつもまっすぐであるように、一人ひとりの決意を示すために、人は「悔い改めの洗礼」を受けるのです。

日常わたしたちが言う「悔い改め」とは何を意味しているのでしょう。「人としてあるべき道」へ戻ることでしょうか。だとすれば、そもそも「あるべき道」とは何なんでしょうか。人としての常識?だとすれば、人がいるだけの「べき道」が存在することになります。しかし、一人ひとりが納得すれば「悔い改め」が叶うものでしょうか。自己満足の何物でもないのではないか、という気がします。

人間の努力だけでは「転換」できない

聖書で言う「悔い改め」は、確かに、「生きる姿勢の転換」であることに変わりはありませんが、人間の努力によってその転換がなされるというよりも、神の業を知ってその方向へと変えられていくことを意味しています。したがって、神の業を知ることなしにはなしえない転換であるということです。そのしるしが、水による洗礼であるということが出来るでしょう。そして、罪の赦しを現実化するのが、イエスの十字架なのです。

わたしたちの愚かさを忍耐し、利己的なわたしたちと一つになり、わたしたちの労苦と重荷を共に担うために誕生されたイエスに比べ、洗礼者ヨハネが説くイエスは、とても力強さを背景に持つ存在者として登場します。

イエスの生涯は、人類の救いのために「奉仕」の日々でした。人は何も「損をしない」のです。ただ、悔い改めて救いの時を「待つ」のです。

 

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